タイに進出している日系企業の多くはタイ人従業員に関して、判で押したように同じ不満を口にする。
退社の連絡を突然もらった。
期待できる人材がなかなか見つからない。
大学新卒の社員を育成するのに時間がかかる。
タイ人従業員の定着率の悪さや仕事ぶりに当惑し、いらだちやもどかしさを抱えている。豊田通商の関連会社、豊田通商エレクトロニクス・タイランド(TTET※)も、その例外ではなかった。
※出資比率は豊通エレクトロニクス51%、豊田通商39%、豊田通商タイランド10% 出所はTTETホームページ(
こちら)
2012年、伊藤秀哉氏は豊田通商から豊通エレクトロニクスへの出向を経て、TTETのプレジデント&CEOに着任した。当時の離職率は約27%。タイのIT業界としては平均的な数字とされるが、同社で相次いでいたのは業務の鍵をにぎるタイ人マネージャー層の退職だ。問題は深刻だった。
豊田通商エレクトロニクスタイランド(TTET)のプレジデント&CEO・伊藤秀哉氏(右)と人事総務部ゼネラルマネジャーの楠本浩史氏。
なぜこんなに人が離れていってしまうのか。その背景に目を向けた伊藤氏が気づいたのは、組織に生じていた深刻な歪だ。
「『気持ちの悪い組織だな』というのが、三代目として赴任し組織を見たときの感想です。タイ人と日本人がお互いを尊重していないため、深刻な溝が生じていた。仕事も受け身でやっているし、お客さん目線がどこにもない。教える側も指示を出すだけで手を動かしていない。常時、みながピリピリしていて、雰囲気の悪い職場でした」
従業員170人が車載組み込みソフトウエアの開発に従事している。利益率が高く、同社の明日を担う事業だ。
豊田通商エレクトロニクスタイランドの設立は2005年。車載組み込みソフトウエアの開発や車載用電子デバイスの販売事業などを展開している同社がタイに進出した理由は、市場的にも政策的にも人材的にも環境が整っていたからだ。
負のスパイラルにはまる
タイにはトヨタの拠点がある。人件費と教育環境から、これからこの国でソフトウエア開発の市場が拡大することは明らか。加えて、タイ政府は「タイのデトロイト化」構想のもと、国を挙げて組み込みソフトウエア産業を育成する方針を掲げていた。法人税や設備輸入関税といった投資奨励によるインセンティブもある。チュラロンコン大学やタマサート大学などタイの東大・京大とされる大学からは毎年5000人ものIT系学部生が卒業しているが、彼らの受け皿となる就職先が少ないため、日系企業の人材採用は容易に見えた。
「確かにたくさん採用できました。でも、その多くが辞めていった(苦笑)。そういった大学に通うのはお金持ちの子息が多いので、仕事を辞めても特に困らないんですね。退職した後は、もう一回大学院に通うとか、実家の仕事を手伝うとか、海外に旅行に出るというケースが多いんです」
退職していくタイ人を「ハングリー精神がない」とみなすのは簡単だが、この状況を放置していては、肝心の事業が成り立たなくなる。組織を変えなければならない。タイ人と日本人の真の融合、「Fusion」を行動指針に掲げ、人材を育成するための組織改革が2012年4月から始まった。
オフィスには、タイと日本の「融合」を目指す行動指針を掲げ、日常的な意識づけを図っている。
当時のTTETを覆っていたのはこんなスパイラルだ。
離職者が多いので、人材を育成しようにも人手が足りない。
そのため開発力は低下し、生産性は落ち、バグが多発するなど品質にも問題が生じる。
問題を解決するための長時間勤務が必要となり、残っているスタッフの負荷が増大。
これに嫌気がさして、また人が辞めていく。
退職者にも繰り返し「なぜ辞めたの」
スパイラルを止めるにはまず、問題の根っこを突き止めねばならない。伊藤氏は人事総務部のゼネラルマネジャーを勤める楠本浩史氏とともに、タイ人マネージャーへのヒアリングを行った。現マネージャーだけではない。退職を決めたマネージャー、すでに社を去ったマネージャーも対象だ。
「何が不満なのか、どうして辞めるのか、なぜ辞めたのかと繰り返し聞きました。1対1では本音をなかなか言ってくれないので、4、5人のチームに分けた。それでも借りてきた猫みたいに最初は話をしてくれない。『職場環境や上司のマネジメントについてどう思う?』と優しく聞いていくうちに、誰かが口火を切り、ようやく本音が出てきた格好ですね」
面白みを感じられない仕事へのいらだち、日本人とタイ人との意思疎通の難しさ、マネジメント層と現場とのギャップ。上下関係を絶対視し、上司に従順なタイ人が、その場では「はい」と答えながら、実は腹落ちしていない実態も浮き彫りになった。
従業員214人中、日本からの駐在員は2人。残りは現地採用(うち日本人20人)。タイ人と日本人の融合なくして事業は進まない。
ヒアリングを重ねた上で、伊藤氏は豊田通商に戻り、こう告げた。「『今のままではタイでソフト開発をしても意味がないので止めたい、思い切って違う仕事をします』と非常事態宣言をしました」
すると日本の上司からは「『慌てるな』『組織を絞ってもいいから足腰から強化し直してくれ』と言われた。それを受けて、今度はマネージャー職を全員社長室に集めて、『現状のやり方ではもう将来がないと思ってくれ。半年以内にやり方を変えてくれなければ撤退。変えてくれれば事業継続だ。これからはあなたたちが商売を引っ張っていくんだ』と危機感を煽りました」
当時の状況を楠本氏はこう語る。
「特にソフトウエア開発部門では不満が多く、日本人とタイ人のどちらもがナショナリティという言葉を使って問題を一般化していました。丁寧に教えないと、タイ人はひるんでしまう傾向がありますが、日本人は『わからなかったら聞いてきてね』『できなければ聞いてくればいいのに』という態度をとりがち。でも、タイ人からするとプライドもあるし、そもそも上司が怖いから聞きにいけないんですね」
社員が萎縮し硬直した現場が、「日本人だから」「タイ人だから」という理由のもとにさらに風通しが悪くなっていた。スパイラルを断ち切るために、伊藤氏はエンジニアのモチベーションを上げようと仕事内容の見直しに着手する。
「以前はソフトの受託開発といっても、やっていたのは本社が設計したソフトの検査だけ。せっかく大学を出てプログラミングができると思ったら、ドキュメントのチェックや単純な検査ばかりで、これでは知的好奇心が満たされないと離職が増えていた。そこで、仕事を構造設計や単体設計、コーディングといった上流にも広げました。いまでは、検査設計も手がけています。少し先を見て新しいソフトの開発手法やツールを先取りしたり、日本から講師を呼んで『こんなソフト開発もできるよ』とセミナーも開くようにしました」
退屈な業務がなくなったわけではない。だが、もともと優秀な大学を卒業した優秀なエンジニアたちだ。彼ら彼女らの知的好奇心を刺激する仕事があれば、会社に留まりたくなる理由ができる。
2012~13年当時、風通しが悪かった組織が、思い切った改革で生まれ変わった。
伊藤氏は、従業員に自覚をもたらす取り組みにも着手した。
「顧客の日系企業にヒアリングして、競合はどれぐらいのコストで、どのぐらいの時間で仕事を受けているのかをリサーチしました。さらに、プロジェクトごとにコストと生産性を掛けあわせて、競合と比べた場合の我々の仕事をお客さんに数字で評価してもらった。この結果は、自分たちの実力を分かってもらうためにすべてエンジニアに見せています。中には満足度40%という悲惨なプロジェクトもありましたが、お客さんからのシビアな評価を知ることで、彼らも自分たちは残業をして一生懸命やっていたのに実は競争力がなかったことに気がついてくれました」
オンサイトで「日本の行動規範」を身につける
顧客からの評価をもとに、伊藤氏は思い切って受ける仕事の量も減らしている。これまでのように片手間ではなく、勤務内に人材育成のための時間を確保することが急務だと考えたからだ。
「仕事を絞ることについては、正直、日本側の営業とはもめました。『せっかくお客さんのところに通って必死で取ってきたのに仕事を断るとは何だ』と非難されましたが、無理をして受けても納期が間に合わなかったり、品質に満足してもらえなければお客さんに迷惑をかけるだけ。そう言って断りました」
仕事量が減れば、1対1で丁寧に教えられる体制が整う。OJTという便利な言葉を使って、実は放任でしかなかった現場が変わり始めた。
さらに、社内での教育に加えて、日本の客先にエンジニアを派遣するオンサイト(常駐)も増やしている。
「語学はもちろんですが、日本の行動規範が身につく効果が大きいですね。日本のお客さんの期待する動き方、働き方、考え方が体で理解できるようになる。納期が差し迫ると品質テストが済んでいないのにもかかわらず、つい焦ってテストをせずに納品していたタイ人が、クオリティファーストだということ、納期に遅れるのであれば、いま何ができていて何ができていないかを報告することの重要性を知り、本当の意味の顧客目線を身につけて帰ってくる。プロジェクトのコアメンバーとして皆を引っ張っていけるようになるんです」(伊藤氏)
もうひとつ注目に値するのが、同社の日本語教育の体制だ。
タイ人スタッフに日本語を学ぶ機会を提供している日系企業は少なくないが、TTETの日本語教育はソフトウエア開発に必要とされる語学力を効率的に向上させるための教育に特化し、しかも内製化している。
ソフトウェア技術者のための日本語教育を内製化し、独自の教材や教授法を作り、到達レベル目標を設けている。
「業務で必要なのは要求仕様書を読んで理解し、メールを読み書きする能力と、技術仕様の打ち合わせをするときに必要な会話力ですが、この部分だけを外部に切り出すのは難しい。だったら会社の中に語学学校を作ってしまえと、先生を雇用し、カリキュラムも自分たちで作った。社内に技術翻訳をするチームがあるので、そこのデータベースから頻出単語を抽出し、開発に必要な日本語や言葉遣いを覚えてもらうことからスタートしました。日本語を教える先生にもソフト開発の勉強をしてもらっています」(楠本氏)
「ちょんがけ」(エンジンをちょんと回すときの動作を指す言葉)といった、一般の日タイ辞書には絶対登場しないであろう特殊用語もカバーしたTTET独自の辞書は、プロジェクトが移り変わるごとに新しい単語が増え、どんどんバージョンアップ。いまでは顧客から「その辞書を買いたい」と依頼されることも多いそうだ。
マネジメント層にも大なたを振るった。開発力を上げるため、品質や生産性管理部門については、大手日系エレクトロニクス企業から、タイミングよく業界に知見のあるベテランをヘッドハンティングして責任者に据え、開発や人材育成の責任者は駐在員から現地採用へと切り替えた。
結果は離職率にはっきりと出た
「我々は真剣に組織を変えようとしているんだと本気度を見せるためです。弊社の最初の10年間は日本人の駐在員を中心に回していたが、それではいつまでたっても仕事は上から与えてもらい、事業戦略も上司や日本人が考えてくれるという発想から抜け出せない。もっと能動的に自分たちで仕事を作っていってもらうためには現地採用の活用が欠かせません」(伊藤氏)
現在、TTETの社員は214人。うち駐在員2人をのぞき、残りはすべて現地採用だ。とりわけ興味深いのが、現地採用の日本人を大いに活用していることだろう。
これまでの私の取材経験から言うと、「タイ人はダメだダメだ」と頭から決めつける企業に限って、現地採用の日本人を見下しがちだ。だが、TTETでは人事・総務の責任者である楠本氏を始め、現地採用された20人もの日本人が活躍している。3~5年の勤務で日本に戻っていく駐在員と違って、好んでタイに住み、タイで働き、タイ人と日本人をつなぐ存在である現地採用の人材重用は、「我々は真剣にタイ人と日本人のFusionを追求している」という明確な意志の表れだ。
2012年~13年にかけての組織改革の結果は、数字に顕著に現れた。2014年の離職率は13.6%と、前年の32.1%から大幅に激減。しかも経常利益は過去最高を記録している。昨年の離職率も12%。2014年の数字がフロックでないことの証明だ。
2015年には、TTETが向かうべき方向を明らかにした「2025年ビジョン」を作成した。このビジョン作りに加えて、現在、ビジョンと人事評価制度をひも付ける業務をサポートしている人事・組織コンサルティング会社アジアン・アイデンティティの代表取締役・中村勝裕氏は、TTETをこう評する。
組織を再構築した上で、これから10年後の目指すべき方向を示したビジョン「Mobilizer of Human Driven Communication」を策定した。
「タイ人と日本人の融合を図ろうとする強い意志を感じます。これまで他の日系企業で、タイやタイ人へのリスペクトのなさが立ち居振る舞いから出てしまっているケースをたくさん見てきました。その中では出色です。日本の企業はここタイで事業を営んでいるわけですから、現地をリスペクトすべきだし、そのためにはこちらから胸襟を開かないといけない。その点、TTETは伊藤さんも楠本さんも本気度が違いますね」
アジアン・アイデンティティの中村勝裕氏。タイ人スタッフとともにアジアのローカルに根ざした人材組織コンサルティングを手掛けている。
そう、組織改革を進めるTTETのマネジメント層は常に「本気」だ。タイ人の本音に触れたい、溝をなくしたいと、伊藤氏も楠本氏も会社主催のクリスマスパーティでは本気で臨み、衣装を揃え、土日に内緒で集まって練習を重ねて、タイの人気歌手の歌に合わせて踊りを披露し、社員から大喝采を浴びた。「サバイ」(気持ちいい)で「サヌーク」(楽しい)なことに目がないタイ人はこうしたイベントを心待ちにし、精一杯楽しむ。そこにお義理で加わっても白けられるだけだが、真剣に参加すれば社員のトップを見る目はがぜん変わってくる。
イベントにも常に本気だ。クリスマスパーティでは、衣装を合わせ、練習を重ねて本番に挑み、タイのスタッフから喝采を浴びた。
スタッフが地元で結婚式を挙げるとなれば、伊藤氏は現地に出向き、式にも参加。従業員との食事会も頻繁に行い、信心深いタイ人が「オフィスにピー(幽霊)が出る」と苦情を申したてれば、お坊さんを呼んでおはらいをし、社員の要望に応える。小さなことから大きな改革まで本気の姿勢に変わりはない。
タイ人は信心深い。お坊さんを呼んでのセレモニーはタイで事業を営む上では必須である。
中村氏は言う。
「日本人が、仕事をきっちりやってくれるどうかを重視し、人をタスクベースで信頼するのに対して、タイ人は関係性ベース。人間関係を作らなければ、いくら仕事で規範を示しても信頼されない。すごくベタな話ですが、お昼ごはんを一緒に食べるとか、家族のことを話題に出して『お母さんは元気?』と声をかけたり、自分も家族の話を共有したりして、人間関係を作っておかないと信頼できる人だとは見なされません。食事会とか社員旅行を施策ベースで取り入れる日系企業は多いのですが、そこにメンタリティがついてこなければ意味がない。人の気持をつなぐことが大切です」
人間関係からスタートできますか?
2016年、TTETはデンソーと手を組み、別会社を設立する。TTETのエンジニアが優秀なので囲い込みたいというオファーを受けてのチャレンジだ。新会社にはこれまでデンソーのプロジェクトに関わっていたメンバーを出向させ、新卒のエンジニアをどんどん募っていくという。「特に変わったことはしていない。当たり前のことを愚直にやっただけ」(伊藤氏)の真剣本気の組織改革は顧客にも評価され始めている。
タイ人幹部を育てたい、いずれはタイ人に任せたい。そんな目標を掲げる日系企業は多い。だが、人間関係を築き上げるところからスタートしているケースはどれぐらいあるのだろう。
「あなたたちは私たちに敬意を払っていますか? どれだけ本気ですか?」
日系企業は常にタイ人にこう問いかけられている。この問いに真摯に向き合い、信頼関係を築き上げる努力を惜しまず、愚直なまでに当たり前を繰り返した企業だけが、成功の果実を手にすることができるのだ。
4月のソンクラーン(水掛け祭り)では丁寧にセレモニーを開催した。タイの文化への敬意の表れだ。
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