広島県内には、日本の酒に特化した店はなかった。また、日本酒のマーケットは縮小傾向にあった。小さい市場なら手ごわい競争相手も来ない。戦わずに存在価値を見いだせるはずだと考えた。日本酒と本格焼酎の魅力を伝えていくこともできる。
しかしここからが長い道のりだった。山田社長が売ろうと決めたのは有名な蔵元の酒ではない。無名でもおいしい酒を造っている酒蔵を見つけ、一緒に銘柄を育てていく。そのため、仕入れ方法から売り方まですべてを変えた。
これまで問屋から調達していた酒は蔵元から直接仕入れることにした。「造り手の考えを知ることができるし、お客様の要望を伝えることもできる」。
小さな蔵元に電話をかけ続け、電話の向こうで、酒造りの夢を語り合える相手とは取引を決めた。「安酒のイメージを払拭したい」という蔵元の要望を聞けば、年月をかけて新たな酒造りを応援し、全国の店に紹介することもあった。
しかしすべてがうまくいったわけではない。「せっかく取引が始まっても私たちの力不足でお客様がつかないこともあったし、取引が一度きりで終わってしまうこともあった」(山田社長)。たとえそうであっても、一度結んだ縁を自分からは切ることはなかった。ようやく日本酒が動き始めたという手応えを感じたのは、7年後だ。
90年には芋焼酎の扱いを開始した。「森伊蔵」だった。当時広島では芋焼酎を飲む文化がなかった。そのため、せっかく醸造元を説得して商品を仕入れたものの鳴かず飛ばずの時期が続く。倉庫にはついに30箱が山積みになったこともあった。売れ行きを心配した社長から電話があるたび、「おかげさまで売れています! いつもありがとうございます」と嘘の返事をし続けた。
焼酎が順調に売れるようになったのはそれから5年がたった頃。やがて2002年の本格焼酎ブームで一気に火が付いた。
アドバイスを売る
山田社長は言う。「私たちの役割は、造り手の思いや情熱を伝えるだけではなく、蔵元の付けた価格に見合う、あるいはそれ以上の価値と特徴を見いだし、日本の酒の素晴らしさを世の中に広めていくこと」。

そのため2つのことを徹底している。1つは一物一価を崩さないこと。90年代に始まった規制緩和によって、山田社長の予想通り、価格競争と価格破壊が激化した。しかし、もし価格を下げれば、造り手の思いや情熱までディスカウントすることになる。価値を守るため、90年以降、酒商山田では一切安売りをしていない。個人向けにも飲食店にも、醸造元が決めた定価で販売をしている。
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