古くて重い「老舗」によるイノベーション
米シリコンバレー・リポート3 既存事業を抱えつつ新規事業開発に成功した秘訣
世界のICT(情報通信技術)をリードする米シリコンバレー。そこからAI(人工知能)革命という新たなうねりが起きつつある今、日本の中小・ベンチャー企業は、どう受け止め、どう対応すればいいのか。それを探るため、日本の中小企業経営者らが7月23日~27日、スタンフォード大学の専門家や現地で働く日本人社員などのもとを訪れた。主催は、シリコンバレーに拠点を構える日系企業で、米・スタートアップ企業と日本の中小企業の協業を支援する、ブリリアント・ホープ。日経トップリーダーと日経BP総研 中堅・中小ラボが企画・協力をした。ここではそこで語られた米シリコンバレーの最新動向を複数回にわたって紹介する。3回目はERP(基幹統合システム)の巨大企業、独SAPが既存事業を抱えつつ、なぜ新規事業開発を起爆剤にして再成長できたのか。その秘訣をSAP Labs Silicon ValleyにてPrincipalを務める坪田駆氏が解説する。
SAPという会社はドイツに本社があるITの会社です。会社の設立は1972年。ERP(基幹統合システム)と呼ばれる会計や人事などのパッケージソフト開発を事業の主力としてきました。現在、世界14カ国に約9万人の従業員を抱え、世界180カ国に40万社以上の顧客を持っています。2017年度の売上高は238億ユーロ(約3兆940億円、1ユーロ130円換算)という企業です。
ドイツの会社ですから、シリコンバレーでは外資系企業という位置づけです。その中では最大規模で、約4000人の社員が働いています。物価が高く、拠点の維持コストは非常にかかります。それでも、新規事業を生み出す最前線として、シリコンバレーの拠点を重視しています。
坪田 駆(つぼた・かける)氏
SAP Labs Silicon Valley Principal。年間1,600人を超える日本企業のリーダーに対して、老舗企業がシリコンバレーのエコシステムを活用し自己変革に成功した経験を伝える。日本国内で目的あるイノベーションを志向するビジネスコミュニティー「Business Innovators Network」を主宰。SAPのアントレプレナー養成事業 SAP.iOメンター。コマツとSAPジャパン他のジョイントベンチャーであるランドログのシリコンバレーメンターも務める。他に経済産業省「始動」プログラム シリコンバレーメンターなど。
実は5年ほど前までSAPの業績は頭打ちでした。原因は主力事業の成長の鈍化。当時、売上高の9割がERP関連でした。しかし、大企業のERP導入が進むことで、ERP市場が飽和し、またクラウドサービスが次第に増えていく中、新規顧客を開拓しづらくなったのです。それが改革の結果、大きく変わりました。今は売り上げの6割が新規事業で、既存のERP事業は4割。さらに6、7年前に比べて売上高が倍に成長したのです。
はっきり言えば既存事業の成長が止まったときのSAPは、古くて重く変わりにくい会社でした。そんな会社がなぜシリコンバレーの地で、しかも外資系なのに定着して、新規事業を開発して再び急成長することができたのでしょうか。
ドイツ企業と日本企業の共通点
本題に入る前にドイツ企業と日本企業の共通点について、少し触れたいと思います。どちらも第2次世界大戦の敗戦国で、1970年代くらいまでに自動車など現在の基幹産業の素地をつくってきた会社が多い。こうした企業では、創業者が引退した後、新しいものを作るというより、既存のビジネスモデルを改善していかに長く保つか。ここに注力していたように思えます。それらの企業に共通する価値観は「いいモノ、いいサービスを提供すれば売れる」というもの。
こういう企業の経営は安定します。しかし、外部環境が大きく変わったときに対応できなくなる恐れがある。それを防ぐには既存事業を抱えつつ、新しく変わらなければなりません。ところが、これが非常に難しい。既存事業の成功体験が邪魔をして新規事業を生み出しにくくなる。まさにイノベーションのジレンマが生じるからです。
SAPも例外ではありませんでした。成長の鈍化に危機感を抱き、当初はドイツ本社のR&D(研究開発)本部の中に新規事業推進部を立ち上げて第2の収益の柱をつくろうとしたものの、うまくいきませんでした。「新規事業は既存事業の枠を超えてはいけない」「新規事業は既存事業より成長してはいけない」――。こうした見えない同調圧力が生じて、どの事業も成功しなかったのです。
しかし、デジタル化が進んだ今、既存事業だけにとらわれていては、会社自体が淘汰されてしまう恐れがあります。「デジタル・フォー・ミー」という言葉を知っていますか。皆さんは今日、ライドシェアのウーバー・テクノロジーズのサービスを使って当社まで来たそうですが、そのウーバーは皆さんのような顧客とドライバーの需給だけを単に調整して乗車料金を決めているわけではありません。皆さんがどのくらいの距離を乗車したとき、いくら料金を払ったのか。こうした履歴を分析し、顧客一人ひとりに対して実は値段を変えているのです。例えば、いつもチップを多めに支払う人は、そうでない人より高めの乗車料金になったりします。
これは非常に重大なパラダイムシフトが起きていることを示しています。どういうことか。これまで「いいモノやいいサービスを提供していれば、それに価値を感じてくれた顧客が共通の値段で買ってくれる」という神話が崩れたことを意味する。要するに一人ひとりの購買特性を蓄積したデジタルデータで仔細に把握し、個別に値付けをする時代に入ったのです。こうした中で、既存事業だけで新興のデジタル企業と戦うのは非常に厳しくなります。なぜなら、彼らのほうがデータで顧客のことをよく知っているからです。しかもデジタル化が進めば各業界の参入障壁が低くなる。つまり、新興企業との競争に一度勝ったとしても、次々に新たなライバルが現れます。
人、場所、プロセスを変えて復活
では、SAPはどうやってイノベーションのジレンマから抜け出したのか。具体的には、人、場所、プロセスの3つをそれぞれ変えました。
まずは人。経済学者のヨーゼフ・シュンペーター氏は、イノベーションは単なる発明ではなく、新結合と定義づけました。既存のもの同士の組み合わせが新しければ、価値を生むという趣旨です。これに従うなら、新結合が起こりやすい環境を企業がつくり出せば、イノベーションは起きやすくなります。では、社員同士で新結合を起きやすくするのはどのような場合か。異なる背景を持つ人同士が出合って意見をぶつけ合ったときではないか。そこでダイバーシティー(多様性)を担保することにしたのです。
実際、この拠点で働く約4000人の社員の出身地は40カ国に上ります。また、SAP全体では33%の女性が働いています。若者の登用も非常に盛んです。この拠点の新規事業開発の責任者は29歳。SAP全体のCOO(最高執行責任者)は36歳、CIO(最高情報責任者)は32歳。要職に若者が次々に就いています。単に女性を増やせばいい、若者を積極的に登用すればいいという話ではありません。組織を変えるためにどれだけ経営陣が真剣になれるかということが問われているのです。
「人と場所とプロセスを変えて革新を起こした」と語る坪田氏(立っている人物)
SAPの場合、何の縛りもないと企業体質が変わらなかったので、徹底して仕組みをつくりました。例えば、世界14カ国にある現地法人の全トップに対して、いつまでに女性管理職比率を何%にするか数値目標を定めているのです。これは過去のデータと将来予測を分析した結果、女性管理職比率を1%高めた場合、どのくらい営業利益がアップするかおおむね相関関係が分かったからです。女性以外にも異なる国籍の人をどう取り入れるか、若い人をどう巻き込むかなど、すべて仕組み化することで、ダイバーシティーを担保したのです。
次に場所です。先ほど説明した通り、既存事業と新規事業の組織を完全に分けました。既存事業はドイツ本社の社長が管轄する一方、新規事業はシリコンバレーで集中的に手掛け、会長(当時、現本社の社長)直轄としたのです。予算も人もKPI(重要業績評価指標)もすべて別々。5年で新規事業に大胆な投資ができた背景には、会長直轄だからという点があります。
ですから、シリコンバレーでは新規事業開発だけにひたすら専念しています。3カ月ごとに1つプロジェクトを次々に走らせて、続けるか撤退するかの判断をわずか3カ月で決める。そこで、事業の広がりが見込めると判断した段階で、本社の既存事業の部署に引き渡します。つまり、ここシリコンバレーでは、売り上げや利益ではなく、どれだけ確からしい事業の種を生み出すかが、人事評価で重要な基準となるのです。
新規事業と既存事業を完全に別組織とした。その上で最終的に新規事業が既存事業に影響を与えて変化を促すイメージ(資料提供:SAP)
最近重視しているのは、新規事業が立ち上がって既存事業の部署に引き渡す段階で、既存事業とのシナジー(相乗効果)を発揮できるようにすること。新規事業は基本的に、(1)企業の中に蓄積したデータを抽出して分析しやすい仕組みをつくるデータプラットフォーム、(2)クラウドコンピューティング、(3)AI(人工知能)およびIoT(モノのインターネット)――の3分野にフォーカスしています。そのため、同じデジタルを扱うERPの既存事業とどこかで親和性がある。そこを探して既存事業の改革を促すのです。
イノベーションを生み出す場づくりに注力
場所という意味では、シリコンバレーでイノベーションを生み出す場づくりにもSAPは貢献しています。スタンフォード大学で「デザイン思考」を教える「d.school」があります。これはSAPがデザインのコンサルティングなどを手掛けるIDEOという地元企業と組んで創設したもの。イノベーションを生み出すための行動様式や思考様式を教える場を提供しました。
また、学生街の目抜き通り沿いに起業家や投資家、取引先などシリコンバレー企業関係者が商談や仕事のために1時間3ドルで利用できる、コワーキングプレイス「HanaHaus(ハナハウス)」も開設。地元に貢献することで、シリコンバレーのプレーヤーの一員として認めてもらっているのです。
そして最後がプロセス。このプロセスがまさにデザイン思考なのです。どんなに人と場所を変えても、プロセスを共通化して方向性を一致させなければ、才能がある人が点在するだけで、イノベーションはなかなか生み出せません。意識の高い人たちが、同じ方向を見ながら同じステップ、同じスピード感を持って仕事をするフレームワークを担保することが非常に重要になる。この役割をデザイン思考に求めました。
デザイン思考のポイントは、人々が困っている社会的課題の解決が目的という点です。以前のように自社だけが儲かる事業モデルでは、もはや企業は存続し得ない。CSR(企業の社会的責任)活動や慈善事業ではなく、社会的課題の解決のために主力事業があるという企業が強い。
しかも、デザイン思考はプロセスを可視化できるので、新規事業がうまくいかなかったとき、何が原因だったのかを後から分析して、次に生かすことができる。ありがちなのが、問題設定自体に誤りがあること。一見すると革新的な製品だが、全然売れないという場合がよくあります。これは何の問題を解決するために誰に売るのかが曖昧なまま生産して起きることが多い。失敗の原因が検証可能になるのです。
トラックを改造した保育器が生まれたワケ
一例を挙げましょう。マサチューセッツ工科大学(MIT)の学生が、保育器がないため、全世界で毎年約400万人の未熟児が低体温症で亡くなっている問題を解決しようと考えました。彼らはスポンサーを募り、先進国で大量の中古保育器を確保した上で困っている地域で配るスキームを構築。保育器を持って南アフリカの未熟児の死亡が最も多い地域に出向きました。しかし、そこで「保育器はいらない」と言われてしまったのです。
なぜか。1つは電源が不足していて保育器を動かせないこと。2つ目は壊れた場合に修理できる人がいないこと。3つ目は出産を自宅で済ませる女性が大半で、病院に行かないこと。その結果、MITの学生より先に各企業から寄付された保育器が、各家庭の物置に大量に積み上がっていたのです。
でも彼らは諦めませんでした。デザイン思考に基づいて失敗の原因を検証したところ、問題定義に誤りがあったことに気づいたのです。保育器の数がなぜ足りないのかが問題ではなく、電源がなくても使える保育器がなぜ1台もないのかが真の問題だったことに。
SAPがシリコンバレーに設置したコワーキングプレイス「HanaHaus」。商談などのためにスペースを1時間3ドルで使える(HanaHausのホームページより)
MITの学生が各家庭をよく観察してみると、荒れた道でも走行できて、壊れにくいトヨタ自動車のピックアップトラックが非常に普及している。そこで、このピックアップトラックを改造して、エンジンから電源を取れる保育器を考案。試作品を作って使ってもらったところ評判となり、大発明につながったのです。これはMITの学生が現地に入り込んで、未熟児を低体温症で失った母親や命を救えなかった医師の悲しみに共感したから実現できたことです。
SAPはデザイン思考を15年ほど前から社内に取り入れて事業に生かしてきました。その効果がここ5年で次々に花開いてきたというわけです。
特に効果があったのは、B to B to Cのスタンスで顧客と一緒に問題を解決できるようになったこと。例えば、自動車メーカーと一緒にドライバーがどのようなときに苦痛を感じるのかを探し出し、問題解決のためにデジタルの力が必要になった場合、当社がノウハウを提供して対価をもらうといった具合です。これができるようになって業績が大きく伸びました。
日本企業とのコラボレーションでは、建機メーカーのコマツとの事業の例があります。建設業界は今、新築や建て替え需要が多く非常に仕事が多い。しかし、今後10年で人材が100万人に減って仕事の担い手不足に陥ることが目に見えています。そこで、当社やNTTドコモなどと組んで、建設プロセスを自動化するIoTのプラットフォーム(事業の基盤)をつくることにしたのです。
社会的課題のヒントは数多く転がっている
こうした社会的課題の解決に貢献することをSAPも重視しています。では、その社会的課題とは何なのか。さまざまなところにヒントは転がっています。国際連合が2015年に打ち出したSDGs(Sustainable Development Goals、持続可能な開発目標)はその代表例。30年までに実現すべき17種類の目標を掲げており、そのためにすべきことがさらに細かくひも付けされています。
皆さんの会社も今日の私の話をきっかけにして既存事業を抱えながら、新規事業開発に成功してほしいと思います。ご清聴ありがとうございました。
(構成:久保俊介、編集:日経トップリーダー)
シリコンバレーの最新動向を知る視察研修を実施しています
現地の専門家の講演などを聞くことができる、シリコンバレー視察研修を実施しています。現地に拠点を構える日系企業で、米・スタートアップ企業と日本の中小企業の協業を支援する、ブリリアント・ホープが主催。日経トップリーダーと日経BP総研 中堅・中小ラボが企画・協力しています。対象者は、中堅・中小企業経営者向けの通年セミナー「日経トップリーダー大学」を受講した経営者およびその関係者です。来年も開催を予定しています。「日経トップリーダー大学」やシリコンバレー研修の詳しい内容についての質問はこちらのお問い合わせフォームからお願いします。
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