だが、その後も失敗と逆境は続く。その一つは、99年に岩国市の著名な観光地、錦帯橋近くにレストランをオープンしたこと。地ビール製造に関する規制緩和の流れに乗り、併せて酒造りをしない夏場の仕事の創出を目指しての取り組みだった。
だが、コンサルタントに任せきりにしたことなどが響き、大道芸を見ながら地ビールを飲むというレストランは、わずか3カ月で撤退に。当時の年商に匹敵する約2億円の損害を抱えた。「普通の酒蔵の経営者にはできない取り組みだと思ったが……。6割の確率で倒産すると覚悟した」と桜井は話す。しかもこの失敗は、本業の酒造りにも大きな影響を及ぼした。最高指揮官である杜氏が、辞めていったのだ。
新規事業の失敗で杜氏から「三行半」
普通、酒蔵の経営者は酒造りを杜氏に任せるが、桜井は違っていた。自ら情報を収集し、杜氏の仕事にも積極的に口を出していた。このときは、杜氏の手足となる職人の確保とその指導をめぐって桜井と杜氏とにあつれきが生じ、長年の不満や経営状態への不安もあって退職という重大事態につながったようだ。
だが桜井には信念があった。「おいしい酒を消費者に届ければ売れる。おいしい酒は、社員、顧客、経営者すべてを幸せにする。だから、杜氏の酒造りにもいろいろ注文をつけた」。
杜氏の離職という事態に直面しても、この信念が揺らぐことはなかった。ならばと、杜氏に頼らない酒造りへ踏み出したのだ。具体的には、製造工程で様々なデータを取って、水分含有量や温度を管理する工場のような仕組みを導入した。これなら勘や経験によらず、素人でも酒造りができるし、冬場以外の季節でも生産が可能。こうして「おいしい酒」を安定的に造る仕組みを整えて売り上げを伸ばし、危機を脱することができた。

その後も、2010年に1号蔵、12年に2号蔵、そして岩国市街地にある精米工場と、一歩ずつ設備を増強。15年には本社の新築に併せてその中に本蔵も設けた。全部で50億円以上かかったという。「これだけ投資したら、移転するのは経済的な面で合理的でない」と桜井は話し、今後も岩国市に腰を据えると話す。
(後編に続く。文:井上俊明、この記事は「日経トップリーダー」2016年11月号の内容を基に再編集しました)
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