ところが84年1月、父から「後を継がないか」と持ちかけられたのだ。「表向きは『自信がない』と言ったが、実は父の〝道具〟になって働くのが嫌だった」という桜井は、いったんその話を断る。だが、その直後に父にがんが見つかり、3カ月足らずで急逝。予想外の事態に、桜井は、家業を継ぐ決心をせざるを得なかった。

 その頃、旭酒造の業績は10年で売り上げが3分の1にまで減るなど、長期低落の真っ只中にあった。地元岩国では業界4番手どまり。加えて焼酎ブームもあり、日本酒業界全体が低迷していた。

 「かつて日本シリーズで、9回裏ノーアウト満塁のピンチに立たされた、広島の江夏豊投手のような状況で、私は社長に就任した。『手の打ちようがないから、あいつにでも社長をやらせるしかない』という陰口も聞かれたほどだった。税務署員からは、『もがけばもがくほど沈んでいく泥沼ですね』と言われていた」と桜井は語る。

「もがけばもがくほど沈む泥沼」からの脱出

 だが桜井はこの状況を逆手に取った。父の代から勤めていた幹部社員は、自信をなくしており相次ぎ辞めていった。だから、“抵抗勢力”は皆無だった。自分のやりたいようにやれたし、たとえ失敗してもあざ笑う人はいなかった。

 桜井は、当初、紙パック酒を作ったり値引き販売をしたりして、いわば低価格路線で生き残りを図ろうとした。だが、うまくいかなかった。そこで品質重視路線に転換。大吟醸酒の開発に取り組んだのだ。仕込みに手間がかかり、大量生産に不向きな大吟醸酒であれば、小さな酒蔵であっても勝負することができる。

 新市場の開拓にも励んだ。地元の酒蔵との競争を避け、県外、とりわけ東京での営業に力を入れた。全国的に評価の高い新潟の酒なら東京でも多数の銘柄が飲めるが、山口の酒となると数銘柄しか手に入らなかったのが、80年代当時の実情。数が少ない分、旭酒造の酒が選ばれる可能性が高い。「地元の酒を飲みたい山口県出身者が応援団となって、売り上げ増加に協力してくれた」と桜井は話す。

本社ビルは2015年に建て替えた。本蔵も入っている
本社ビルは2015年に建て替えた。本蔵も入っている

 「獺祭」という名前も、東京での販売拡大を念頭につけた。その前の「旭富士」に代えて、斬新なイメージの名前にし、卸売り先や小売り店などに好印象を与えるためだ。ちなみに「獺」は、本社所在の地名から1字を取ったもの。「かわうそ」という意味だ。また「獺祭」は、正岡子規の俳号の1つでもある。桜井は、「子規の進取の精神に共鳴していたし、伝統や手づくりという言葉に安住せず、変革と革新の中からより旨い酒を造っていこうといきがっていた」と、その理由を著書『逆境経営』(ダイヤモンド社)で明かしている。

 そして、77%と当時としては最も多く米を削った、純米大吟醸酒「獺祭 磨き二割三分」を市場に投入し、東京での知名度の大幅アップに成功した。90年代前半のことだ。

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