手ごろな価格のラーメンが人気のほか、「ちょい飲み」需要も取り込み好業績を続けるラーメン店チェーンの「日高屋」。店舗数は400以上に拡大している。同店を運営するハイデイ日高の神田正会長に、チェーン展開スタート時の「業界の常識とは逆の戦略」について聞いた。
神田 正(かんだ・ただし)氏
1941年埼玉県生まれ。中学校卒業後、数々の職を経て、ラーメン店に勤務。73年に独立し、大宮市(現さいたま市)に「来来軒」を開く。83年日高商事(現ハイデイ日高)を設立。2006年に東証1部上場。09年から現職(写真/鈴木愛子)
家が貧しく、私は中学校を卒業してすぐに働き始めました。飽きっぽい性格だったのでしょう。どれも長続きせず、たまたま友人から紹介されて勤め始めたのがラーメン店でした。
いくつかの店を経て、自分で店を開いたのですが、最初からうまくいったわけではありません。寝る間も惜しんで働いて繁盛店にしたものの、うまい話に乗せられてスナック経営に手を出した揚げ句、スナックもラーメン店も駄目にしたこともあります。
今になって振り返ると、スナックが潰れて本当に良かった。神様が「商売はそんなに甘くない。ラーメン店を懸命にやりなさい」と教えてくれたような気がします。
深夜営業するだけで儲かった
数々の失敗の後に1973年、大宮市(現さいたま市)に開いたわずか5坪のラーメン店が今の「日高屋」につながります。この店はすぐに多くのお客様であふれました。格別においしかったからではなく、夜遅くまで開いていたせいです。その頃、深夜12時過ぎまで営業していたのは駅前の屋台とうちのほか数軒だけ。だから店を開けさえすれば儲かったのです。
それでもまねをする同業者はいませんでした。景気は良く、そこまでしなくても飯は十分食べていけたからです。加えて、どこも人手を集められなかった。真夜中まで働くのはつらいですからね。
でも、私は諦めず、働いてくれる人が見つかるまで探し続けました。店が1軒の頃から「多店化する」と強く思い続けていたからです。そうこうするうちバブルがはじけて優秀な人材が採れるようになり、多店化が実現できました。
「日経トップリーダー大学」第6期が始まります
ハイデイ日高の神田正会長をはじめ、トップが月1回、計12人登壇し、自身の経験を通じて体得した経営の要諦を語る通年セミナー「日経トップリーダー大学」第6期が4月から始まります。
今回は「より深く学び、より広く体験する」をテーマに掲げ、プログラムをリニューアルしました。トップの講演・質疑応答はもちろん、受講生同士のディスカッションや年4回の現場視察(企業訪問)の内容を充実させています。特に現場視察は、ジャパネットたかた前社長で現在、J1に昇格したV・ファーレン長崎の髙田明社長の講演、試合観戦など盛りだくさんの内容です。
経営力を高め、景気の波などの外部環境に左右されない強い企業をつくりたいと真剣に考える中小企業経営者のための年間プログラムです。こちらの本講座の詳細をご覧の上、ぜひ参加をご検討ください
一番大事なのは、夢を追い求め続ける情熱ですね。私のようなお金も学歴もない人間がこれだけお店を持てたのも、運良く上場できたのも情熱があったからです。
ハイデイ日高は首都圏にラーメン店「日高屋」などを展開しています。ラーメンとギョーザと生ビールで千円札を出してお釣りがくるというリーズナブルな値段が売り物です。
当社はチェーン展開を始めてから、業界の常識とは逆の戦略を取ってきました。
1つは、徹底して駅前に店を出すことです。みんな家賃の安いところ、安いところへと店を出す。結果、競争が激しくなります。私は反対に高いところ、高いところを狙いました。ほとんどラーメン店はなかったので、巨大なマーケットを独占できたというわけです。
銀行からは「これからは車社会の到来だ。ファミリーレストランを見てみろ。ロードサイドへ出店しないなら融資はしない」と言われましたが、私は絶対に駅前だと主張して譲らなかった。銀行に言われるまま郊外に店を出していたら今の日高屋はなかったでしょう。
ライバルは時代の変化
どんな商売も同じだと思いますが、ライバルは時代の変化だと思っています。時代の変化にいかに付いていくか。そもそも駅前に着目したのはかなり昔、大宮の駅前から屋台が消え始めた頃です。
私が店を開いた当時、まだ駅前にはラーメンやおでんの屋台があって、特に深夜は黒山の人だかりでした。また、かつてサラリーマンは弁当包みをぶら下げて通勤していたのに、70年代になると弁当は持たず、新聞や雑誌を小脇に挟んでいる人が目に付くようになった。この人たちは飲食店のお客になると私は踏みました。
この頃になると、道路交通法や衛生面の問題で屋台は姿を消していました。あそこにいたお客さんたちは行き場を失ってどこに行くのか、うちが駅前屋台の代役になれないかと考え、メニュー構成を変え、いち早く駅前へ店を出し、今の日高屋になりました。
もう1つの逆を行く戦略は、東京進出時に値下げしたことです。ローカル企業は東京に出てくると大抵価格を上げます。地元でラーメン1杯600円のところ、700円とか750円といった具合です。東京は地方に比べ、家賃も人件費も高いですからね。
これも私は逆をやりました。当時、大宮で450円だったラーメンを東京では390円で提供した。最初は赤字だったものの、半年くらいたったら390円でも利益が出るようなローコストオペレーションが確立してきました。
私が390円にこだわったのは、当時大手ハンバーガーチェーンや牛丼チェーンが主要メニューを同水準の値段で出していたからです。あえてそこに価格をそろえることで、お客様に昨日はハンバーガー、今日はラーメンと使い分けてもらいたいと思った。これも狙いが当たりました。
宝の山が待っている
誰もが考えることをやると、熾烈な競争に巻き込まれる。みんなが考えないほうへ行くのは度胸がいるし、怖い。でも宝の山が待っている場合があるのです。
私は地域の皆さんに「日高屋があってよかった」と言われることに生きがいを感じています。先日、あるお客様から「年金生活なので、日高屋の安いラーメンは本当にありがたい」というメールをもらいました。また別の方からは「娘が『日高屋が遅くまで開いているおかげで治安がよくなった』と喜んでいる」というお話を聞きました。非常にうれしいことです。
(この記事は、「日経トップリーダー」2015年6月号に掲載した記事を再編集したものです)
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