昨年、筆者は瀬戸や常滑など日本六古窯と呼ばれる産地や有田、波佐見など日本を代表するやきものの産地を歩きましたが、賑わいが感じられるまちはごくわずかでした。近年は地域資源を活用した地域ブランドづくり、地域ならではの特産品や新たな観光開発が活発で、輸出やインバウンドなど海外市場に活路を見出し、業界全体で攻めに出る取り組みも少なくありませんが、陶磁はその埒外のように見えます。
かつて日本のやきものは欧米で一大ブームを巻き起こしましたが今はそれも遠く、現在の評価やポジショニングも見えません。訪日客による爆買いも終焉を迎え、消費はモノからコトへのシフトが鮮明ですが、やきもののまちの多くはいまだにモノに終始し、コトへのシフトは見られません。
底なしにも見えるものづくり産業の低迷、その現状と課題はどこにあるのか。陶磁分野のエキスパートで人気TV番組「開運!なんでも鑑定団」でも活躍中の陶磁研究家、森由美さんのご協力を得て、日本のやきものの可能性について考えました。
陶磁器生産額は10年余りで6割超も減少
「生産動態統計年報(資源・窯業・建材統計編)」によると、台所・食卓用品を扱う陶磁器産業の生産額は1990年代をピークに縮小を続け、この10年余りで実に6割超の減少となり、2015年度は269億円。うち和飲食器の市場を出荷額で見ると、1991年の1295億円をピークに減少を続け、2015年は309億円にまで落ち込みました。
美濃焼で知られる日本最大の産地、岐阜県の現状を見てみます。美濃焼は岐阜県南東部、東濃地方産のやきものの総称で、その歴史は1300年以上。室町時代には「古瀬戸」、桃山時代には「瀬戸黒」「志野」「黄瀬戸」「織部」などの名物が焼かれた産地として名を馳せましたが、江戸時代には磁器に移行。明治以降は国内需要の増加や輸出拡大のため、他産地に先駆けて量産技術が普及。原料から商社まで分業・フルセット型の産地を形成し、多種多様なニーズに応えられる生産販売体制を確立しました。
2013年の工業統計調査(4人以上の事業所)では、台所・食卓用品とタイル製品を合わせた出荷額全体で全国シェア51.9%を占める国内最大の産地ですが、事業者の約9割は小規模事業者。出荷額や事業所数はピーク時の約4分の1に減少しています。
より深刻なのは原料の不足と経営者や職人の高齢化や後継者不足、そして美濃焼のブランド力不足です。生産減と単価下落のしわ寄せが川上の粘土鉱山を直撃、主要鉱山が相次いで閉山に追い込まれています。
分業・専門化の進展が業界を取り巻く環境変化への関心度を低下させ、対応が遅れたとも指摘されます。志野や瀬戸黒には人間国宝もいますが、大量生産の美濃焼の認知度は低く、ブランド力はありません。
陶磁の専門家には、現在の日本のやきものはどんなふうに見えているのでしょうか。
陶磁研究家、森由美さんを訪ねる

東京生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科(保存科学専攻)修了。戸栗美術館学芸顧問。NHK文化センター講師。テレビ東京「開運なんでも鑑定団」の鑑定士としても活躍(画像提供:森由美さん)
森由美さんは高校時代に高松塚古墳に出会い、文化財の修復に興味を持ったことがこの世界に入るきっかけになったといいます。現在、古陶磁の歴史や日本の磁器の研究などの陶磁研究家として活躍。陶磁鑑定人としてテレビ番組に出演するほか、カルチャースクールで陶磁の歴史や魅力を伝える仕事もされています。
最初に森さんにお聞きしたのは、世界における日本のやきものの位置づけです。2016年に有田焼が創業400年を迎えた佐賀県の有田では、海外市場に一つの活路を見出そうとしていますが、今の日本のやきものに実際、どの程度の需要があるのでしょうか。世界でのポジショニングや価値、他にないオリジナリティはどこにあるのか。これらの疑問に対し、森さんは日本のやきものの系譜を解いて解説してくれました。
日本のやきものの歴史は1万6000年前の縄文土器に始まり、紀元前3世紀には弥生土器が登場しましたが、これら土器の焼成はいずれも野焼きで行われていました。
やきものの先進地は東洋であり、中心は中国です。窯をつくる技術が朝鮮から日本に伝来したのは5世紀。7世紀には百済から緑釉陶器、8世紀には中国から三彩がもたらされましたが、これら高級なやきものは一部の貴族のものでした。
やきものの窯と技術が広まったのは平安時代。猿投窯(現在の愛知県)において高温度で焼き締め、釉の掛かった美しく丈夫な「灰釉陶器」の製造が始まり、東海地方がやきものの先進地になりました。
一番の変革期は安土桃山時代。千利休が茶の湯を日本独自の喫茶法「侘茶」として確立し、独特の造形・意匠をもつ茶陶文化が生まれます。各地で高級な施釉陶器の作陶が盛んになり、瀬戸黒、黄瀬戸、志野、織部、楽焼など色彩豊かな茶陶が次々に生まれました。しかし江戸時代には、華やかな茶陶文化は鳴りを潜めることに。さらに1610年代に有田で始まった磁器生産が18世紀末以降、全国に広まり、日本独自の茶陶文化は傍流となっていきました。
シノワズリーの代替品?日本のやきものの独自性とは
一方、14世紀の元王朝時代に染付磁器の製造を始めた中国は東インド会社と貿易を開始。ヨーロッパでシノワズリー(中国趣味の美術様式)が大流行しました。しかし1644年に興った清王朝と明の間で内乱が勃発すると中国は貿易禁止となり、一大産地だった景徳鎮からの輸出がストップ。そこで東インド会社が代用品としたのが、1640年代に有田で登場した色絵製品でした。柿右衛門様式と呼ばれる色絵磁器が完成、さらに古伊万里金襴手様式はヨーロッパの貴族を魅了し、宮殿などを飾りました。
しかし1684年に中国が鎖国を解いて国際市場に復帰すると有田と競合。さらに1709年にはドイツでマイセンがヨーロッパ初の磁器焼成に成功。市場優位を失った有田は以降、国内市場に目を向けます。
19世紀(明治時代)にジャポニズム(日本趣味)ブームが起こると、国の殖産興業政策の後押しもあって、有田の窯業者は欧米で開催される万博に積極的に出展。日本のやきものは再び脚光を浴びますが、それも1900年パリ万博の頃には飽きられ、終焉を迎えました。
歴史的に見れば、世界における日本のやきものの位置づけは、江戸期はシノワズリーの代替品、明治期は日本趣味といわれる花鳥風月や武者絵等の日本的なモチーフを極彩色で描いた派手なデザインが外国人にウケたということでしょうか。
今井祐子氏著『陶芸のジャポニズム』(名古屋大学出版会)では、「西洋陶磁のジャポネズリー(日本趣味への興味関心)に作用したものの、西洋陶芸を刷新することに作用していたわけではない。18世紀のヨーロッパを席巻していた広い意味での東洋趣味(シノワズリー)であり、19世紀ジャポニズムが流行したフランスでは中国磁器やペルシャ陶器が高い関心を呼んでいた」と記しています。
森さんは「日本のやきものをひとくくりに語ることは難しい」としながらも、他にない日本のやきものの価値、オリジナリティについていくつかの可能性を示してくれました。
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