生存率わずか5%。「赤坂浅田」がたどった歴史

 料亭や花街の歴史をたどると、まさに日本の社会や経済を映す鏡のようです。東京では大正から昭和にかけて新たな花街が次々と誕生し、その数は最盛期には中心部で28、周辺地域を入れると50にも上ったといわれます。しかし1973年にオイルショックが起こると高度経済成長は終わりを告げ、華やかだった料亭や花街は活気を失っていきました。

 景気後退は、それ以前からあった料亭経営者の高齢化や後継者不足、地価の上昇に伴う地上げの横行などの問題を表面化させ、相続税や固定資産税などの負担と相まって経営を圧迫、対処できない料亭や花街は消えていきました。かつて東京六花街の一角を占めた柳橋は1999年、最後の料亭「いな垣」の廃業によりその歴史に幕を下ろしました。日本料理文化振興協会の調査によれば、2003年には花街の数は日本全体で25、芸者数で827名まで減少。接待も料亭オンリーの時代ではなくなっていました。

 赤坂は昔、溜池山王駅付近にあった大きなため池が明治になって埋め立てられ、花柳界として発展したといわれます。一方、赤坂の花街としての格は明治23年に帝国議会議事堂が完成したのを機に高まり、明治後期には新橋、柳橋とともに東京で三指に数えられるまでになりました。

 しかし1960年代には料亭の数は最盛期の半数程度に減少。かつて100軒あった料亭は1972年には34軒、1988年には21軒へと歯が抜けるように減っていきました。96年には赤坂芸者も100名に減少、毎年歌舞伎座で開催されていた「赤坂をどり」が97年に一時途絶える事態となりました。現在は映画監督・小津安二郎命名の「口悦」など5軒の料亭が残るのみです。

参考文献
「東京六花街 芸者さんに教わる和のこころ」浅原須美氏著(ダイヤモンド社刊)
「東京花街・粋な町」上村敏彦氏著(街と暮らし社刊)

 そんな赤坂の料亭の一つ、「浅田」の創始はおよそ350余年前。始祖は1659年加賀藩より中荷物御用を命じられた初代浅田屋伊兵衛で、約200年もの間「江戸三度(月に三度、江戸と金沢の間を往復する加賀藩御用飛脚)」を務めた浅田屋の歴史は、山本一力さんの小説「かんじき飛脚」にも描かれています。「江戸三度」の免許を返上した慶応3年(1867年)は明治維新の前年。飛脚は郵便業に取って代わられ、浅田屋は飛脚棟取の経験を基に金沢市十間町での旅人宿を開くに至りました。その後金沢でホテルや料亭、レストランを開業。「赤坂浅田」の開業は1971年、今年45周年を迎えました。

浅田屋伊兵衛商店(株)の系譜・年表(抜粋)

 「赤坂浅田」が土日祝や平日昼間の個人客向けの営業を始めたのは2010年。1993年開業の青山店、2004年開業の名古屋店では当初から個人客向けの営業を行っており、総売上に占める土日祝の比率は青山で20%、名古屋で35%に上っていましたが、長い間平日夜のみ接待客に向けた営業を行ってきた赤坂の料亭としては新たな試みでした。踏み切ったのは2008年に赤坂浅田の代表取締役に就任した浅田松太さん。1997年に都市銀行を辞めて実家の浅田に入社以来、財務改善などに取り組んできた松太さんですが、長引く景気低迷で企業の接待交際費は激減。そこに頼る経営は不安定なものと感じていました。

 赤坂浅田では個人の会食、婚礼や結納、法事などの冠婚葬祭の宴席も受けるようになり、個人利用の比率は年々高まっています。特に昨年半ばから「一休.com」経由の個人予約が高い伸びを見せており、3~5万円もする蟹づくし会席の予約も少なくないといいます。20~30人の会食利用などリピーターも多く、赤坂浅田でも個人利用の売り上げは15%を占めるまでになっています。当初は、土日など客が来るわけがないと否定的な意見もあったそうですが、訪日観光客の利用も増加しており、今後はこの割合を2割にまで高めていきたいとしています。

(左)法事用の料理。浅田では個人の会食や法事など、冠婚葬祭などの利用も増えている。(右)「名古屋浅田」伝統を重んじる和装だけでなく、カジュアルな洋装も取り入れている