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山田:中国研究には一時ギルドが盛んに出てきて、ギルドしか出てこないといっても過言ではなかった。ところが、その後ぱたっと出てこなくなるんです。ギルドというのはどうなったのかなというのは常々思っているんです。1949年以降の中国ってそれまであったものが、本当にぱたっとなくなったものがやっぱりあって。それが80年代、90年代になって、またちょっと出てきたので、そのうちギルドも、ひょっとすると復活するかも。

岡本:おそらく実態的なものはすでにあるんじゃないかなという気はしますけどね。逆に言うと、手前みそで恐れ入るんですが、そういうことを明らかにするとなると、歴史研究がしっかりしてないといけない。連続性でもってとか、あるいはどう連続、非連続なのかというのが歴史研究なしでは分からないと思うので、我々の責任も大きい。

日本は今や孤立気味

山田:あともう1つお書きになっていて素晴らしい視点だと感じたのが、「中国人が沖縄のことを語るときに『属国』だったという言葉を使うと、史実に誤りがないのに、日本人には中国人の暴論に聞こえてしまう、どうやらそこに問題の本質がある」という指摘です。

岡本:そうですね。要するに認識基準が違うんです。

山田:一般の日本人から見ると、感情的になっているのは相手側、つまり中国の方のように見えるんだけれど、実は逆で、中国と付き合っているときに感情的になってしまうのは日本の方じゃないかと、とても思うんです。確かに上から目線でやられたりとか、私も日々、中国で暮らしていて腹の立つことばかりなんです。じゃあ、そこのところで冷静に、本当に感情に走らずに見なきゃいけないというときに、やっぱり中国の歴史とか、物の考え方を知るのはとても重要になっている。

岡本:そうなんですよ。やっぱり引き出しを多く持っていた方がいいですよね。中国に関する知識とか、あるいはこの人たちだったらこういうふうに考えるだろうとか。共感と言うと、少し語弊があるかもしれませんけれど、彼らが普通に持っている知識だとか、常識とかを、こちらがわきまえる必要がありますので。

山田:僕が思うのは、中国人というのは、いけしゃあしゃあと臆面もなく取りあえず言ってみる。言ってみてだめだったら、じゃあまあ、いいか、みたいな。日本人には、物を言われた通りに受け取らないでくださいと、とても言いたい。

岡本:おそらく中国はすごい競争社会ですから、日本人みたいにあうんの呼吸で分かってくれるとか、何か相手は自分のことを思いやってくれるだろうというような、甘い世界じゃない。それこそ多様で、本当に隣の人でも全然、他人のようなところで彼らは日々暮らしていますから、とにかくやってみてだめだったらもう一遍というふうなこと。そこもやっぱり我々とは認識基準が違うので、それが分かるかどうかですよね。

 我々はどうあがいても日本人なので、まねはできないです。ただあの人たちが何でそうするのかとか、はいろいろ考える必要がありますし、知っておく必要があります。私、京都にいますので、どこに行っても中国人ばかりなんですよ。観光地とか。それで私の周りにも、「何であの人たちあんなうるさいの?」などと言う人たちがいるんですけれど、あれがあの人たちにとっての普通なんだから。

山田:最近は日本基準がどうも怪しいですね。日本基準は決してグローバルスタンダードじゃない。どちらかというと中国の方がアメリカ人と分かり合えるところがある。日本人は、ぜひそこは認識した方がいいと思います。