34円の重さ

 切符を持っている者は皆無で、皆バスの中で乗務員にカネを払っている。聞けば、こうした農村に向かう長距離バスはほとんどが運転手と乗組員らのグループによる個人経営で、ターミナルから客を乗せると売上に応じた手数料をターミナルに払わなければならない。それがターミナル外で乗せれば手数料が不要になるので、運転手はその分、正規料金から割り引いて売るのだ。

 少しでも安く買いたいという客側の心理は理解できる。しかし、正規料金で買えば座席は確保されるが、割引で乗った場合にはその限りではない。そして、ターミナル外から乗った場合にいったいいくら安くなるのかと言えば、最大でも5元(85円)、少なければ2元(34円)程度なのだ。

 一方で、目的地に着くまでの所要時間は6~10時間。固定された座席に座っていてさえかなりの疲労を覚える移動時間だが、席にあぶれた20~25人程度は、運転手が補助席代わりに用意したプラスチック製の風呂椅子に座り苦行に耐えなければならない。わずか数十円を浮かすために冒すにはあまりに大きいリスクに思える。

 しかしその後も、ターミナルから乗るのは私を入れて多いときでも5人程度で、ほとんどの客はやはりわずかな割引を求めて非正規の場所から乗り込んできた。風呂椅子の上で膝を抱えている彼ら、農村からの出稼ぎ労働者「農民工」たちの疲れ切った表情を見ながら、私は徐々に彼らにとっての2元や5元の持つ意味を体感し、その背後に広がる彼らの日常取り巻く環境を少しずつだが理解するようになっていった。

真っ黒に煤けた町

 中国を代表するドキュメンタリー映画の監督として、特に欧州で高い評価を受けている王兵(ワン・ビン)の2016年の作品『苦い銭』(2018年1月よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショー)も、農民工を描いた作品である。雲南省、河南省、安徽省の農村を出て彼らが向かう先は、浙江省の湖州という町。住民の8割、数にして30万人が農民工という出稼ぎの町で、個人経営の縫製工場が1万8000軒、中国の子供服生産の7~8割を手がけることから「子供服の町」と呼ばれているというのは、東京駅に近い試写室でもらったパンフレットで初めて知った。

 ただ、私は個人的に、極めて強い印象を持っている町でもある。上海から安徽省の農村に長距離バスで通っていた際、必ず経由するのがこの湖州という町だったのだが、車窓から見るこの町の空、住宅、クルマ、工場と目に入るどれもこれもが、沿線のどの町よりも煤けて真っ黒だったのだ。まるでこの町の上空から石炭の粉でも振りかけたかのように。中国でPM2.5による大気汚染が表面化したのは2013年末のことで、私が湖州を通っていたのはその4~5年前のことだったが、大気汚染の警報が最悪レベルを付けた上海のどの日よりも、湖州の町の空は汚れていた。