友人が15年以上働いた新聞スタンドの跡地。地面の色が変わっている

 年金生活を指折り数えて楽しみにしている上海人の友人がいた。

 いつも携行している小さなノートに毎月「年金支給まであと4年11カ月」「あと3年9カ月」と残りの日数を更新して書き込んでいた。年金支給の開始は60歳の誕生月から。60歳なんてまだ若い、急に仕事をしなくなったら毎日暇をもてあますだろうと聞くと、「仕事をしなくて済む方が仕事をしなきゃならないよりいいに決まってるだろう。日本人は働きバチだって言うけど、そんなこと考えるなんて、ホントなんだなあ」と呆れ顔で言われたものだ。

 その彼が、「2年2カ月」を最後にカウントダウンノートの更新を止めた。今年の2月のことだ。この月、彼は突然仕事を失った。いや、奪われた、と言う方が正確だ。ともあれ、あれだけ楽しみだった年金の支給が急にどうでも良くなった。嫌々やっていると思っていた仕事に、実は愛着を抱いていたのに気付いたということもある。ただ何より、これで恐らく、彼は一度も、自分の意思で自分の仕事の去就を決めることができずに彼の仕事人生を終えることになるのだろうということに、なんとも納得のいかない思いが突き上げてきて、他のことはどうでも良くなってしまったのである。

 彼の仕事は新聞スタンドの経営だった。10年間務めた国有の腕時計工場を39歳の時にリストラに遭い、2年間の失業を経て2001年から始めた仕事だ。経営といっても元締めの会社があり、1部1元(16円)の新聞を売って得る彼の取り分は0.14元。残りの0.86元は会社に納めるのだから、経営というよりもスタンドの管理者か売り子という方が近い。

 彼が新聞スタンドの仕事に就いた理由が国有企業のリストラだったように、当時の中国は時代に乗り遅れ経営が立ち行かなくなった赤字国有企業が足かせになり、経済が停滞していた。しかし、中国が次の経済大国になるのは間違いないと、海外が中国の市場に注目をし始めたころでもあった。海外の雑誌もそれは同じで、2005年ごろまで主に女性ファッション誌の中国語版の刊行が相次いだ。日本勢も小学館の「Oggi」や扶桑社の「LUCi」、講談社の「with」等はこのころに進出したものだ。上海では同時並行で地下鉄網の整備が進んでおり、地下鉄に乗って通勤する「白領」(ホワイトカラー)がオシャレだという認識が生まれていたが、日本の女性誌はそれまでの中国の雑誌にはなかった「30日間の着回しコーデ」のような特集を組み、若い世代を中心に好評を博した。

 こうして海外の雑誌が中国の大都市で売れ始めた中、国有企業をリストラされた人たちの受け皿として生まれたのが上海の新聞スタンド「東方書報亭」だった。「居民委員会」と呼ばれる地域の自治会兼監視役のような組織と所轄の公安に新聞スタンドをやりたいと名乗り出ると、所轄内の適当な場所に、大ぶりの家庭用物置のような形をしたガラス張りで屋根のついた小屋を無償で用意してくれたのだ。