この村には、父と母のどちらか、あるいは両親ともに上海や北京などの大都会に出稼ぎに行き、小学校、中学校に通っている子供たちが大勢いた。こうした子供たちのことを、中国では「留守児童」と呼ぶ。親のどちらか一方が出稼ぎに出る場合は男親が圧倒的に多い。このため、留守児童の住む村は、子供と女性ばかりになる。

 少し古い統計になるが、中国農業大学人文発展学院が2008年12月、男手あるいは両親ともに都会へ出稼ぎに出たため留守を守っている婦女子の数が、全国で8700万人に上るとの調査結果を報告している。このうち子供が2000万人、妻が4700万人、老人2000万人だという。

留守児童にすらなれない子供

 この日、私と一緒にいた3人の子供の家は全員農家だったが、親と一緒に暮らしているのは9歳のチェンシーだけだった。そのチェンシーも父親は農業の収入だけでは子供を学校にやれないと、村からバスで1時間の町に働きに出ていた。往復2時間程度の通勤なら日本、特に首都圏では当たり前のことだが、中国の農村では事情が異なる。夕方5時に村へ帰る最終バスが出てしまうため、定時まで働くと間に合わないのだ。仕方なく、チェンシーの父は町に部屋を借り月曜から金曜まではそこに寝泊まりし、土曜の朝早くに帰って家族とすごし、日曜の夕方に町に戻るという生活。父親が物理的な距離としてそれほど遠くに住んでいるわけではないものの、チェンシーもやはり、留守児童のひとりだった。

 一方、10歳のウーガオと、13歳のチュンリーは、山間部にある自宅の周囲には小学校も中学校もなかった。このため、ウーガオは妹と祖母、チュンリーは祖母と、自宅から10キロほど離れたこの村に借りた部屋に住み、小学校に通っていた。ウーガオの実家は、茶葉の栽培や養蚕をする農家だとのことだったが、現金収入が少なすぎるということで、両親とも北京に働きに出ていて、春節(旧正月)にさえ帰れない年もあると話していた。

 一方、チュンリーの実家も、この村からやはり10キロほど離れた山間部で茶の栽培などをしているとのことだったが、両親とも病気がちで、出稼ぎに出ることなく、ずっと家にいるとのことだった。つまり、ウーガオやチェンシーは留守児童だが、チュンリーは留守児童にもなれない、留守児童よりも厳しい条件で暮らしていたことになる。

留守児童との約束

 それから半年後の2007年3月。私は再度、この村を訪れた。

 記憶をたどりながら歩いて行くと、見覚えのあるあぜ道で1人、横笛を吹いている小学生と思しき少年がいた。大岩の上に、ただたたずんでいたウーガオたちといい、この少年といい、茂林の子供たちは仙人のようだ。

 前回、子供たちに書いてもらった住所と地図を見せながら彼らの住まいを知らないかと尋ねた。すると笛の少年は、「ああ、おじさん、上海に住んでる日本人のシャンティエンタイスー(山田泰司)だろ? ウーガオたちの家ならこっち。ボクについてきて」と言って、私の先に立って歩き出したので驚いた。どうやら、子供を連れ回した上海に住む日本人として、この村で私はすっかり有名になってしまったらしい。

 家の門口で風呂椅子のような小さな椅子に座って教科書を広げている少年がいた。「ボクは高校には行かないかもしれないから、おじさんもっと早く来て」と言ったチュンリーだった。あれから半年しか経っていないのに明らかに身体が大きくなり、心なしか少し大人びたようにも見える。

 引率してくれた少年の声で教科書から顔を上げ私の姿を認めたチュンリーが、「あれ?? うそだろ??」というようなポカンとした顔をして私の顔を見上げる。「チュンリー、おじさんを覚えてるか? 約束どおり、チュンリーが高校に入る前に会いに来たよ」。それでもなお、チュンリーは半信半疑という顔をしている。

案内してくれたウーガオ(左)、チュンリー(中)、チェンシー(右)

 「ほら、去年撮ったみんなの写真を持ってきたよ」。単行本大に引き延ばして額に入れたチュンリーやウーガオの写真を取り出すと、「うわー、これボクじゃん!」とチュンリーが叫んだ。それを合図にウワーッと歓声を上げて、子供たちと、彼らの母親や祖母たちが駆け寄ってきた。ウーガオの祖母もいる。

 「去年は本当にスミマセンでした」と彼らの親たちに改めて頭を下げると、大人たちが全員、図ったように声を揃えて、「アハハ! いいのよ」とニコニコ顔で言う。やはり、今日も女性ばかりだった。1人が言う。「去年のあの日もさ、子供たちから、あんたが上海から来た旅の日本人で、この村を案内してやるんだ、とは聞いていたけどね。それでもあの時は、あんたがどういう人間なのか知らなかったからさ。朝に子供を送り出したとはいえ、私たちも緊張してたのよ。でももう、今は友だちだよ。そうでしょ?」といって、口々に「うちでごはんを食べていって」と誘ってくれる。去年の騒ぎの時には、「白湯でも飲め」だったのだから、かなりの出世である。

 するとそこへ、町に働きに出ているチェンシーの父親が週末で家に帰ってきた。この村で見る、初めての壮年の男性だった。その晩の食事は、チェンシーのお宅でごちそうになった。