そう説明されても、それはやはりクリスマスのお菓子で、私に食べさせないために母がうそをついているのではないかと思った。そこで、母が台所に立った隙に急いで舐めてみると、カルピスの味もしなければ、オレンジの味もしない。初めて舐めてみたロウソクの味は、吐き気がこみ上げるほどまずくはなかったものの、口の中や鼻の穴に張り付くように広がったにおいからして、それが食べ物の味でないことだけは直感的に分かったような気がした。

 私にとってロウソクの味は、幼い時に母と過ごしたクリスマスの甘やかな記憶でしかない。しかしシュンにとって、ロウソクの味のするパンは、中国の格差社会を目の前に突きつける鏡の役割を果たすものでしかない。

 高校受験に失敗し、親戚のつてを頼って上海の花市場に就職したものの、思いのほか体力の要る仕事に2週間で音を上げ、シュンは給料ももらわずに夜逃げのようにして仕事を辞めた。それでも申し訳ないからと、就職を世話してくれた親戚に連絡をすると、故郷に帰る長距離バスの乗り場まで見送りに来てくれたその親戚は、「バスの中で食べなさい」といって餞別代りに2斤分の食パンをくれた。15歳のシュンが、社会に出て初めて手にした報酬は、パンだったということになる。しかもロウソクの味のする。

 偶然、長距離バスの隣りに乗り合わせた私にこのような話を語って聞かせてくれながらシュンは、「食べてください」と言って、彼の「初任給」を私にもくれた。ひとくち噛んだ途端、口の中いっぱいに広がるロウソクの味を感じ、隣りにいるこの少年の境遇を私はいっぺんに理解した。

「カネがないやつはロウソクを食え」という峻烈

 ロウソクの味がするパンとしないパンを分けるもの。それは値段だ。

 北京オリンピックが開催された2008年あたりから、上海では「外資系」のパン屋が急速に増えた。中国と地理的に近い香港や台湾の大手パンメーカーはもとより、日本でもおなじみになったフランスのパンの老舗「PAUL」をはじめとする欧米勢、そして日本の大手メーカーや、パリで修業したという日本人のパン職人が出した店などが続々と開店したのだ。

 イギリス系製薬会社の駐在員として上海に赴任していたベルギー人の友人は、日本の最大手メーカーが上海のデパートに出しているパン屋のフランスパンを、「これは本場ヨーロッパのバゲットとはかけ離れたシロモノである」とくさすのだが、その彼女をして、「外はカリカリで中はモチモチ。これはパリで食べるバゲットと同じだ!」と唸らせるほど、本格的なおいしいパンを食べさせる欧州系の店もある。

 この友人がくさした日系のパン屋にしても、同じアジア人である中国人の口には合うようで、当時、日本を含めた同社の全店舗の中で、上海店の売り上げが世界一になったというほどの人気だった。イングリッシュブレッドをはじめとする食パンから、ソーセージやコロッケをはさんだ食事パン、ピザパン、メロンパン、クリームパンなどの菓子パンに至るまで、数10種類のパンが並ぶ店内は、今でも夕方になると、トレーとトングを手にした仕事帰りの「白領」(ホワイトカラー)の女性たちで連日ごった返す。

 私がシュンとバスの中で出会った2006年から上海万博のあった2010年ごろまで、日系、台湾系など新興パン屋の食パンの値段は15元(現在のレートで250円)前後。この価格帯のパンに、ロウソクの味を感じたことはない。また、外資勢に刺激されて商品が洗練され、店構えも奇麗になった中国系パン屋のそれは8~10元(約130~170円)。この価格帯の店のパンは、ロウソクの味がするものもあったが、そういう店は年々減っていった。

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