他国の人が読むことを考えて書け

内田:食えるんです。国内の一部の読者だけに向けて書いて、海外の読者には読ませられないものを書いてもたっぷり飯が食えるという状態が言論の劣化をもたらしているんです。

 僕は20年ぐらい前から物を書き出しているのですが、もともとはフランス文学が専門ですから、論文を書くときは、いつも自分の書いたものをフランス語に訳せるかどうかを吟味する習慣がありました。日本語の勢いでばんばん書いていると、あとでフランス語で抄録とか書く時に、ほんとうに困るんです。

 だから、主語、動詞、目的語がはっきりしているかどうか、センテンスが論理的につながっているかどうか、同じ意味を言い表すフランス語の単語があるかどうか、いつも気にかけて書いていました。「フランス語に訳せるか」「フランス人が読んでわかるかどうか」ということは久しく僕にとってはものを書くときの一つの「ものさし」だったのです。国内的な文脈でわかったつもりになっていることは外国語には訳せない。もちろん、日本語でしか言えないことってたくさんあるし、それがとてもたいせつなことである場合もあるんですけれど、「ああ、これは日本語でしか言えない。どうしてもフランス語にはならないな」ということを思い知るのも、とても大切なことだと思うんですよ。

山田:例えば内田さんが「エビデンス」という言葉を使われて、「証拠」というふうにおっしゃらないのは、内田さんの中の感覚では証拠という日本語よりもエビデンスの方がしっくりくるということもあるのですか。

内田:そうかも知れないですね。

山田:そうだと思っていつも読んでいたんです。

内田:証拠って何となく法律用語っぽいけれども、エビデンスというのはどっちかというと自然科学の用語ですからね。

山田:なるほど。ただ、無意識だったんですね。

内田:英語で書いても通じる言葉は英語で言ってしまえというのは、若い頃に技術翻訳をやっていたときの経験則でもあるんです。うまく日本語にできない言葉はカタカナで書いてしまった方が誤解の余地がない。実際に、微妙にニュアンス違うんですよね。実は同じ言葉じゃないんです。語義は似ているんだけれども、手触りが違う。そういう言葉がたくさんあって、そのつど使い分けができる方が日本語が豊かになると思って。

 だからよく文句を言われるんです。「お前の書くものは英語が多すぎる」って。でも、それは英語に訳す時に翻訳者の手間を省くという実利的な理由もあるんです。でも、僕の書いたものはほとんど英訳されていないので、そういう気遣いをしてもあまり意味はないんですけど。それからもう一つは、今言ったように、日本語を豊かにしたいというのがあります。日本語って、中国から漢字が入って以来、外来の言葉を日本語の文脈の中にどんどん取り込むことで富裕化してきたという伝統があります。漢語も使うし、明治以降は英語も使う、ドイツ語も使う、ラテン語も使う。

山田:そうですね。夏目漱石あたりの時代でちょっと途絶えちゃったわけですね。

内田:鴎外、漱石だと漢語は出てくる、ドイツ語は出てくる、ラテン語は出てくる。

山田:逆立ちしたってあんな文章は書けませんけどね。