内田:確かに元寇では来ましたけれど、元はモンゴル人の建てた帝国ですからね。漢民族の発想ではない。東に興味を持ったのは紀元前の秦の始皇帝くらいしかいない。それも領土的野心ではなくて、方士の徐福を送り出して東海に蓬莱山があるそうだから不老不死の薬を探してこいと言っただけです。
7世紀の白村江の戦いで大敗した倭国は朝鮮半島の拠点をすべて失います。唐による日本侵攻を怖れて、国防体制を整備して、対馬や大宰府に水城を、瀬戸内海沿岸には城塞を築き、北九州沿岸には防人を配備します。そればかりか都を海からの攻撃に弱い難波から内陸の近江京へ移しました。でも、結局唐は日本列島を攻めずに半世紀後に遣唐使が再開されて、唐との国交は回復されます。
日本が中国に侵攻されなかった理由
僕はこういう場合に「起きてもいいことがなぜ起きなかったのか?」について考えるのは大切な思考訓練だと思います。唐の日本列島侵攻は「起きてもよいこと」でした。朝鮮半島は唐の同盟国である新羅によって統一されていたわけですから、唐には東アジア唯一の敵対国である倭国を攻める地政学的な理由があった。だから、天智天皇・天武天皇の時代に必死になって国防体制を整備したわけです。でも、日本人は「来る」と思っていたけれど、唐は来なかった。「起きてもいいことがなぜ起きなかったのか?」。
僕たちは西域の方がはるかに秘境に思える。ゴビ砂漠に比べれば日本海なんか船ですぐに渡れる、朝鮮半島から二三日の距離です。「すぐそこ」なんですから。だから、大軍で押し寄せても兵站線が伸び切る心配もない。日本列島の方が西域よりもはるかに「攻めやすい」ように思える。でも、来なかった。それは日本列島がコスモロジカルには「遥か遠方」に思えたからでしょう。中国にとって西域と東海とどちらが「秘境」でどちらが「バックヤード」なのかは主観的な「イメージ」に過ぎない。それは地理的な遠近とは関係がない。彼らのコスモロジカルな「物語」の中の出来事なわけですから。
だから、伝統的に中国人は東海に進出するということに魅力を感じない。鄭和が大船団を組んで遠洋航海をした時もまっすぐ南下して、インドシナ半島、スマトラ、インド、アラビア半島、アフリカに向かった。東に行けばわずかな旅程で日本列島を訪れることができたわけですけれど、見向きもしなかった。
そのつもりになれば、中国人は日本列島を何度も襲うことができたはずなんです。でも、来たのは元寇の時のモンゴル人だけです。漢民族は来たことがない。それについて「なぜだろう」と考える必要はあると思うんです。答えがあるわけじゃないけれど、さまざまな集団はそれぞれに固有のコスモロジカルな物語があって、「行きたい方向」が決まっていて、その趨向性は地政学的合理性では説明できないということは確かです。
『街場の中国論』にも書きましたけれど、中国の易姓革命論というのも一つの「お話」なわけです。農村が窮乏化し、農民が流民化し、カリスマ的な農民指導者が登場して内乱が始まり、群雄が割拠し、中の一人が競争相手をすべて制して、王朝を倒して、次の中華皇帝となるというのは中国人にとって、政体交替劇の基本的な構図です。すべての政体交替劇はこの「台本」に従って行われる。マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』で書いている通り、歴史的な大変動というのは必ず過去の物語を再演する。扮装と舞台装置を変えるだけで「同じ話」が繰り返される。それは過去の物語の再演が強烈な政治的喚起力を持っているからです。「これは前に見たあの風景だ」と思った時に、人々は次に何が起きるのかを予見して、その既視感に呪縛されてしまう。「こうなるのは運命だ」と思ってしまう。だから、大きな政治的変動を企画する人たちは必ず「いつか見たあの風景」を再現しようとする。
中国の場合でもそうです。政治的な大変動は必ず既視感を伴う。前代未聞の風景の中で国民的エネルギーが総動員されるような政治的な大事件が起きるということはないんです。「ない」というと言い過ぎですけれど、非常に可能性が低い。でも、こんな話を政治学者は扱いません。幻想の領域の話ですから。
山田:では、習近平もかつての皇帝たちと同じように二十四史のような歴史書に自分がいなくなった後に書かれる。そういったことを意識していると。
内田:当然そうするだろうと思います。秦の始皇帝から習近平まで、中華帝国を統治する人間の考えることというのは本質的には同じなんじゃないんですか。「歴史に名を残す」というのが彼らの野望なんです。そして、名を残すためには同じ物語を再演しなければいけない。衣装を変えて、舞台装置を変えて、台詞を変えて、でも、「同じ物語」を再演する。中国のような広大な国の十数億の国民を一つの方向に取りまとめようと思ったら、そういう「シンプルで雄渾な物語」を処方するしか手立てがない。
山田:なるほど。すごいですね。
内田:何の根拠もない仮説なんですけどね。
山田:いやいや、そんなことはないです。
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