絶望と希望と

 同書は、著者が取材した農民たちの十年前と十年後を対比した写真からはじまる。無表情のもの、あるいは、笑顔のもの、さまざまだ。同書が、人間の人生を描くものである以上、その物語のなかに、刹那であっても将来の輝きが読み取れるはずであった。

 ただ、同書で描かれるのは、時代と国家に翻弄される個人たちだ。歴史的背景や、共産党政権の独自性うんぬんといった衒学的な解説はさておき、目の前で苦悶している、もっと距離の近い苦痛の言葉だ。

 同書で最後に、著者は上海を離れるパン夫婦に、海を見に行こうと誘う。

 五十三歳にして初めて海を見て二人はどんな顔をするのだろうと、私はあれこれ想像した。

 連休の数日前、パン夫人からSNSが入った。

 「家政婦の仕事が休めないから、海に行けません。ごめんね。またウチにご飯を食べに来て」

 決してハッピーエンドではない結びを書いている。

 しかし、奇妙なことだが、同書を読後、陰鬱な印象かというと、実はそうでもない。同書には、絶望的な内容があふれてはいる。それなのに、なぜか一抹の希望を感じさせられる。おそらく、それはn=1の農民に愛情を込めて付き添ってきた著者の生き様に、読むものが感動を受けるからだ、と私は思う。

 エピローグにこんなエピソードがある。大晦日に著者が一人で寂しく食堂を訪ねたときのことだ。

 離婚した上に失業し、一日二十元(三百二十円)で暮らすというような生活を送っていた。

 このような著者だったが、店員らは歓迎してくれた。さらに炒飯を丁寧に、そして大盛りで出してくれた。

 他人のことを考える余裕などなさそうな彼が、自分の家族どころか同じ国の人間でもない、ただ店の常連というだけの日本人に、心を寄せている。

 この年、私の大晦日の孤独を救ってくれたのは、店長だからといって決して暮らし向きがいいわけではなさそうな、中国の農民工だった。

 そして、著者はこう続ける。

 彼らのことを、どうして愛さずにいられるだろう。

 このルポタージュに、とても不似合いな、しかし、必然のように思われるこの一文に、私はふいに胸を衝かれた。この一文こそが、著者が同書を書いた、いや、書かざるを得なかった業を表現しているように感じたからだ。

 国家システムの問題がある、経済格差がある、そしてすぐには解決できない根深い戸籍問題がある。しかし、それ以上に著者が描きたかったのは、知人の中国農民工たちの、⽣⾝の⼈間そのものだったのではないか。私が同書をルポタージュと呼びたくない、と書いた理由もここにある。同書は同時にルポタージュを超え、一人の書き手の人生そのものだからだ。

 この種の取材文は、第三者が真偽を確認できないため、つねに、どこまでが真実で著者の妄想か、という疑念を免れない。しかし、私は同書を、その枠にとらわれない評価をしたいと思う。

 思えば、マルクス『資本論』を、あるいは毛沢東の『毛沢東語録』を名著としたのは、それが科学の書籍だったからではなく、偉大なる情熱の書だったからではなかったか。大衆は、その情熱に酔い、結語に体を委ねてしまったのだ。その意味で、『食いつめものブルース』は、たしかに読むものを心動かさずにはおれない。

 いつか私は、著者から直接、その熱を感じたいと思う。