熱気を帯びるアメリカ大統領選挙。共和党は不動産王のドナルド・トランプ氏、民主党は前国務長官のヒラリー・クリントン氏が、指名獲得に有利と言われている。両党の大統領候補者は、7月後半に予定されている全国大会の代議員投票によって最終的に決定される。日本でも予備選の結果が連日報道され注目度が高い。今回、サプライチェーンにまつわる発言から、両候補の主張する政策が未来のサプライチェーンに与える影響を読み解いてみたい。
米国企業を敵に回すトランプ氏
米国経済の活力の源とされてきた移民に対するトランプ氏の辛辣な発言は、米国内のみならず世界のメディアで物議を醸し批判の的だ。しかし、移民によって米国民の仕事が奪われているだけではなく、テロの危険も増しているとする主張は、中間所得者や無党派層から支持を得ている。
この主張はサプライチェーンにも派生し、グローバルに事業展開する米国企業に遠慮しない、国内雇用を創出する「生産回帰」を意図した発言となっている。これまでに名前のあがった企業は、米アップル、米フォード・モーターと、米国経済をけん引する新旧の主役達だ。企業がみずからの成長戦略を描き、サプライチェーンの最適地としてメキシコや中国で生産しても、米国内の雇用創出には結び付かないと主張し、現在までのところ有権者に受け入れられている。
明確な立場を示さないクリントン氏
一方のクリントン氏。これまでトランプ氏のアップルやフォードに対する主張を明確には否定していない。この対応は、トランプ氏の主な支持層である無党派層への注意深い意識に加えて、オバマ政権の国務長官時代に掲げた政策が影響している。
オバマ大統領の就任は、リーマンショックの衝撃が色濃く残る2009年初頭。就任して2年後には米国内への生産回帰に取り組む姿勢を強く打ちだした。輸出を5倍増やすと高らかに目標を掲げ、TPP(環太平洋経済連携協定)にも参加を表明した。上記5つの要素に加え、リーマンショックの後遺症に苦しむ中で景気刺激策を金融業に対して注入できないとの政治的な思惑、為替のドル安傾向などが加わり、米国への生産回帰が実現する気運が高まった。
そんな中の2011年8月、ボストン コンサルティング グループが衝撃的なレポートを発表した。「Made in America, Again」と題され、当時日本でも、この内容が多方面で引用された。レポートでは、次の2つの点が強調された。
・中国の賃金上昇、米国の生産性向上、ドル安などにより、北米市場向け製品のうち多くは、米国で生産した場合と中国で生産した場合とのコストの差が今後5年以内にほぼなくなる見込み
・米国南部と中国揚子江デルタ地域の賃金を、生産性を加味した上で比較すると、2010年には中国揚子江デルタ地域の賃金は米国南部の41%だったが、2015年には61%へ上昇
しかし2016年となった現在まで、米国への生産回帰が進んだのは、オバマ大統領が明確な政策を打ちだした2011年のみ。以降、生産回帰は進んではいない。正しくは次の2つの理由によって「生産回帰できなかった」のが現実だ。
戻せず再構築を迫られたサプライチェーン
生産が海外へ流出すると、雇用やサプライヤーといったリソースなど鎖のようにつながっていたサプライチェーンが失われる。携帯電話や自動車といった上流の生産を戻したいと考えても、サプライチェーンを構成する要素であるサプライヤーが、生産の海外流出とともに米国内から消えたのだ。結果的に、元々生産していた状態を取り戻せずに、新たに社内外のリソースを構築しなければならなかった。労働者も生きてゆくためには他に働き口を求めていたので、過去の生産にまつわるノウハウの蓄積が生かせなかった。新たに雇用した従業員は、改めてトレーニングが必要だった。サプライヤーは失われた生産を穴埋めすべく、製品の転換や、顧客業態を変更して生き残りを計った。
こういった生産の海外流出後の生き残りを懸けた取り組みによって、かつての購入取引を復活させようとしても思う通りに進まず、新しいサプライヤーを開拓し取引を開始したケースが多かった。生産回帰は、生産の海外移転によって失われた売り上げが回復した側面のみで、生産の実態は、新たな生産の立ちあげと変わらなかったのだ。
新たに生産を立ちあげられればまだ良い。iPhoneの背面に刻印されている「Designed by Apple in California Assembled in China」は米国製造業の海外進出方法を象徴している。製品開発は米国で行って、製造は中国の製造委託先で行うビジネスモデルだ。iPhoneは最新モデルの6Sまでこのビジネスモデルで生産し全世界に供給している。新たな機種の登場により、追加や変更されているのは機能面だけではなく、生産技術の面でもさまざまなノウハウを中国側で蓄積している。
そういった海外にあるノウハウは簡単に移管できない。仮に移管できるとしても、米国と中国の人件費の差は引き続き大きい。また米国における製造受託メーカーの多くは、試作品や多品種少量品、ハイエンド品が対象だ。海外で生産している製品を米国生産したくても、生産を受けられるメーカーが米国に存在しないのだ。
生産回帰は2011年のみ
こういった傾向は、米ATカーニーが発表している「生産回帰指数(Reshoring Index)」にも表れている。先述したように、オバマ大統領が生産回帰、そして製造業の輸出振興を訴えた2011年こそ国内生産の増加傾向が見られるが、2012年以降は一貫して輸入の占める比率が増加している。
これまでの米国における生産回帰の取り組みと結果から判断すると、トランプ氏の主張である米国内に生産を戻すのは事実上不可能だ。ただ、世界の消費者が、米国で生産した価格の高いiPhoneを購入するのであれば話は別だ。iPhone6の製造に要する人件費は、中国では1台当たり4米ドルと言われている。一方で、米国のサンフランシスコと中国の広州の人件費は、一般ワーカーレベルで、それぞれ月額3370米ドルと462米ドル。実に約7.3倍もの差がある。これを単純に当てはめると、米国ではiPhone1台当たりの人件費が29.2米ドルとなる計算だ。
関連する製造ノウハウの移管に要するコストや時間を考え合わせると、トランプ氏の主張に答える形でアップルがiPhoneの生産を米国内に戻す事態は考えられない。他の米国企業も同じ判断をするはずだ。オバマ大統領の主張を受け入れず、生産回帰が実現しなかったように、トランプ氏が大統領となっても、米国内で再び生産が行われる可能性は極めて少ない。
クリントン氏も、TPPに反対を主張し、トランプ氏が受け入れられている点を意識した発言を行っている。オバマ大統領の政権内で主張した生産回帰と輸出拡大が、思うように進まない可能性を見据え、今後現実的な主張を行う余地を残している。
ビジネスマンとして成功を収めたトランプ氏が、経済的合理性を兼ねそなえた生産回帰の難しさを理解していないはずはない。しかし、これまでの発言内容の転換は、熱狂的な中間所得者と無党派層を基盤とする支持者を失う結果につながる。米国企業のサプライチェーン的視点でみれば、民主党のクリントン氏を支持すべきだ。
このまま虚像の生産回帰を追い続け、トランプ氏が大統領の座を射止めるのか。しかし、トランプ氏の主張は、iPhoneの背面に刻印されている「Designed by Apple in California Assembled in China」にある高付加価値の仕事を米国内で行って発展した企業からすれば、まさに正反対の主張に映るであろう。トランプ氏が今の主張を続けられるのか。クリントン氏が現実的な主張を始め有権者に受け入れられるのかどうか。各党の候補者指名から目が離せない。
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