日本のセレクトショップの草分け、ビームスが今年で40周年を迎える。
原宿に最初の店を構えたのは1976年。70年代から80年代にかけ、勢いを増したファッションのただ中に位置し、展開した店は次から次へと話題をよんだ。90年代に入って、セレクトショップがファッション業界のスタンダードとなる中、ファッションビルやショッピングモールに出店し、全国区のショップとして知名度は高まり、業態を増やして業容を広げた。今やビームスは、セレクトショップの範疇を超え、アパレル業界でメジャープレーヤーの一角を担っている。さらにクルマや家電をはじめ、さまざまな企業とコラボレーションを組み、商品開発を行っている。
そのビームスが、創立40周年に合わせて新宿店をリニューアルし、“日本”を切り口にしたショップに生まれ変わらせた。
ファッション業界は、長期低落傾向にある。顧客単価は下がり、ファストファッションが流行したが、そのブームも一巡した。百貨店などは、中国など海外からの観光客の爆買い頼みの昨今だが、その勢いも沈静化しつつある。
老舗ビームスは、この停滞する日本のファッション市場で、どちらに向かおうとしているのか。社長の設楽洋さんの話を聞きに行った。

1951年 東京都生まれ。慶應義塾大学経済学部卒、1975年 株式会社電通入社。プロモーションディレクター・イベントプロデューサーとして数々のヒットを飛ばす。1976年 「ビームス」設立に参加。1983年 電通退社。自らをプロデューサーと位置付け、その独自のコンセプト作りによりファッションだけでなく、あらゆるジャンルのムーブメントを起こし、セレクトショップ、コラボレーションの先鞭をつけた。(撮影:鈴木愛子、以下同)
1970年代の「かっこいい」は、米国のモダンなライフスタイルでした
川島:私にとって、ビームスとの出会いは、原宿の明治通りに面した「インターナショナルギャラリー」です。新潟から東京に出てきたのが1970年代の終わりのこと。欧米の旬なデザイナーの服がずらりと並んでいて、見ているだけで楽しくって足繁く通っていました。1984年、伊藤忠ファッションシステムに入社して、ファッション業界に足を踏み入れてから、もっとビームスを知りたくなって、設楽さんのインタビューをお願いしました。
設楽:懐かしいですねえ。
川島:お会いしてびっくりしたのが、他のファッション業界の方とずいぶん違う「キーワード」を連発されていたこと。「転がり続ける多面体」「100人いれば100のビームスがあっていい」など、時代を的確にとらえた視点が、次々と言葉化されていることにワクワクしたんです。これは凄いアイデアマンだなあと感動しちゃって。たしか設楽さんは、ビームスを始める前は、電通にいらしたんですよね。
設楽:大学を卒業したあと、すぐに電通に入り、イベント関係の企画・運営をやっていたんです。東京モーターショーをはじめ、大きなイベントを仕切らせていただきました。物凄く面白かったし性分にも合っていた。
川島:じゃあ、なぜ電通を辞めちゃったんですか?
設楽:実家の事情です。段ボールなど輸送用パッケージを製造していたのですが、1970年代のオイルショックの影響を受けて経営が悪化していました。それで親父から、これからどうしていくか相談されたんです。じゃあ、「何か売ってみよう」と小売りビジネスを始めることにしたんです。
川島:それで電通を辞めちゃったんですね。もったいない。
設楽:それから40年。あっという間に今にいたったというわけです(笑)。たいへんなこともありましたが、総じて楽しくやってきました。
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