川島:ああ、だから、自分で自分のことを「かっこいい」って思っている人は、「かっこよく」見えないんだ(笑)

糸井:逆に言うと、世間的に「とてもかっこよく見えている人」というのは、あんまり自由じゃない人です。

川島:「かっこいい」んだから、自由に生きられるような気がしちゃいますが。

糸井:他人から見て「とてもかっこよく見えている人」というのは、世間との関係で生きてきた時間や、その人の「かっこよさ」によってさまざまな影響を与えているわけです。となると、自由なんてほとんどないんです。

川島:たとえば?

「かっこいい」とは不自由なことさ

糸井:木村拓哉くんなんかそうですよね。彼は、人が見ていないところでガードレールをポンと跨ぐ時だって、かっこよくなきゃいけないわけです。それは、やっぱり自由ではないでしょう。だから、「かっこいい」というのは、社会の中の価値観の話になるんです。

川島:ああ、確かに木村拓哉さんのような「かっこよさ」は、不自由ですね。一方で、自分で「かっこいい」と思っている人って、世の中にけっこういますよね。

糸井:そういう人は、「人から見た=社会から見た価値」、つまり「かっこいい」を「私は持っています」という取引を、毎日自分の中でやって、社会に見せているわけでしょう? その取引の中にしか「かっこいい自分」がいないわけだから、ちょっと哀しい。

川島:そういうのって、けっこう誰からも見えて、わかっちゃうものなんですが。

糸井:そういう人からは、ひっきりなしに屈託が出ていますから。

川島:「かっこいい私」という屈託が見えちゃうっていうのが、ある意味「ダサい」につながります。

糸井:見え見えだとそうなっちゃいます。「したいこと」と「できること」の間のところに、「ダサい」が入ってくるわけで。人って「したいこと」はあるけれど「できないものはできない」。

川島:なるほど。「したいことができる人」は「かっこいい」けれど、「したいことができない人」がかっこつけると「ダサい」になっちゃいますね。

「よーし」だけも、「どこ行くのかなー」だけも良くない

糸井:「ダサい」って言葉で思い出したんだけど、「野暮」って言い回しがあるじゃないですか。「野暮」って言い回し、取り扱い注意だなって思ったんですよ。それで、ある時、「『野暮』って何だろうってことを誰かが調べてまとめたらいいのに」と言ったら、すぐに「糸井さん、『野暮』についての本が出てますよ」と教えてくれる人がいたわけです。でも、それこそが「野暮」というもので。

川島:あはは、本当だ。ほっといてくれ、ですね。

糸井:調べればわかることを、わざわざ「ほれほれ」って言い立てるのが、そもそも「野暮」というものでしょう。

川島:「したいこと」と「できること」の間のところに、「ダサい」が入っているから、「到達していない」のは「ダサい」ですよね。でも糸井さん、ご自身の到達点って、いつも見えているんですか?

糸井:どうかなあ。「裸になって浮かんじゃっても何とかなるよね」と言われた時の嬉しさってあるじゃないですか。漂流したとして、こうやって浮かんだわと。

川島:無理に到達点を作って目指すんじゃなくて、あるがままに流されてみるってことですか?

糸井:それができたら「野暮」じゃなくなります。今、力を抜いたらどこに行くんだろうという時に、そのまま行ったらどっちに行くかなというのを無意識で探している状態。あっちに流れると、ちょっと何か良さそうだなとか。本当の理想は、もう全部の力が抜けて、「ああ、いいところに浮かんでいる。これからどこ行くのかなー」みたいなところにあるんですよ。でも、まだまだちょっと「野暮」いから(笑)、そうなっていないですけど。