平松:謙遜ではなく、そんなことはない(笑)。だいいち、ものすごく狭い。それに、そもそも台所とは、毎日お料理する場所でしょう? だから、そこに置く家電は、生活用品として働いてくれればありがたい。それ以上を求めていません。つまり、機能が先にあって、買い手の背中をちょっと押すようなデザインであれば十分。だからこそ思うのですが、機能とデザインの順番を間違っている日本の家電、意外と多いのかもしれません。

川島:そう、勘違いしているのです。例えば炊飯ジャーで言えば、一所懸命、良いものを作ろうと追求した結果、竈で炊くご飯のおいしさに行き着いた。技術をそこに注ぎ込んで、炊飯ジャーの形や色は、お櫃の美しさにこだわってみた。そして、それを表現するために、伝統工芸の技術を取り入れたと言われても、どうしてそこに行ってしまうのか、疑問を感じちゃうんです。そういうの、要らないって(笑)。
平松:これがなければいいのにな、って思うこと、多いですよね。むしろ謎なんですが、作る側が大事なことを忘れているのかもしれない。つまり、自分の生活に、その要素が本当に必要なのかどうか、見えなくなっている……。
川島:大手メーカーでは、商品企画の人、技術開発の人、デザイナーの人など、多くの人たちが、日々一所懸命、開発に取り組んでいる。その結果がなぜこれに、と思ってしまいます。
生活している感覚の上に立ってモノを作っていない
平松:やっぱり作り手が、ひとりの個人として自分の生活をしていないからかもしれません。あるいは、生活しているという確かな感覚の上に立って、モノが作られていないと言った方がいいのかもしれない。
川島:そう言えば以前、ある審査会でテレビ部門を審査していて、「裏のデザインをすっきり収めた」ことをアピールしている製品があったのです。「それってどうでもいい」と思ったのですが、工業デザイナーの審査の視点は「その努力は凄い」となる。真っ黒でピカピカに仕上げてある台座や縁についても、「指紋がついて掃除しにくい」と思ったのに、「これだけ平滑なピアノフィニッシュができるのは、評価すべき技術」となる。大きな疑問を感じました。
平松:本当ですか? その逆転は、なんだか哀しくなってしまいます。デザイナーの方々は、日々、自分で掃除をしないのでは(笑)。やっていたら、ピカピカしているものを掃除することの面倒臭さが分かるはずなんですよね。自分で料理する、掃除する、洗濯するといった生活を営んでいれば、そうはならないと思う。
それと、もうひとつ感じるのは、“自己愛”の気配です。テレビならテレビのデザインばかりを、一日中やっているわけでしょう。何回も何回も作り直して会議を通していく。その過程を経る間に、ふと分からなくなってしまうのかもしれませんねえ。
でも川島さん、一方で私は、作ることは自由だとも思います。選ぶのは消費者なのだから、買わないという行為で答えを出すのも、ひとつの考え方ではないでしょうか。
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