全6050文字

疎かになった食料生産維持の観点

日本の農政をどう評価していますか。

平沢:農政はここ20~30年、ミクロの問題、経営の競争力強化にシフトしてきた。その起源をたどっていくと、農産物貿易を自由化するので、その後も生き残るため、農業が競争力を持たなければならないという発想にたどりつく。その結果どうなったか。いろいろ手を打ってきたが、マクロで見たとき、食料生産をどう維持するかという観点は疎かになってきたように思う。

 戦前にまでさかのぼれば、日本はもともと水田が足りず、食料を自給できていなかった。戦前はコメの2割くらいを輸入していた。主食すら自給できない国だったわけだ。戦争が終わったとき、日本は食料が不足し、一方、米国は食料が余る時代に入っていた。そこで、米国からどんどん入って来た。

 輸入したのは、主に家畜のエサになる大豆やトウモロコシだ。ちょうど日本は畜産を振興しようと思っていたので、「エサは輸入すればいい」と考え、輸入が拡大していった。これが日米の貿易関係の基礎を形づくった。コメを作る水田が足りないので、エサまで作ろうという発想は出てこなかった。

 この枠組みを踏まえ、1961年に農業基本法を制定した。コメは自給を前提にして経営規模を大きくして効率を高め、需要が伸びている畜産、野菜、果樹を拡大しようとした。一方で、家畜のエサを輸入に頼るなど、安い農産物の輸入を受け入れることを認めた。「選択的拡大」と呼ばれる政策だ。

 ところが、基本法ができるとすぐ、コメ余りになり、やがて生産調整(減反)が始まった。コメが余ったのなら、本来はコメ以外の土地利用型作物を振興すればいい。

 だが選択的拡大の結果、いまさら土地利用型の作物を作ろうとしても、コメ以外は国境を開いていたので、作れるものがなかった。

農産物貿易はその後、対象がどんどん広がりました。

平沢:米国は当初、日本にエサを売りたいと思っていたが、そのうち果汁や畜産物も売りたいと言い始めた。この動きが70年代に始まり、80年代になって本格化した。自由化交渉を通してどんどん輸入が増え、いまや畜産と園芸作物のほぼ半分を輸入が占めるようになった。

 畜産という付加価値の高い農産物を、安い輸入のエサを使って伸ばしてきたはずだった。だが国内で畜産の需要が増えた分の多くを、輸入でまかなうということが起きた。コメ余りで基本法が破綻したという指摘があるが、選択的拡大で伸ばそうとした分野が輸入でやられ、形骸化した面も大きい。