農協改革に大鉈をふるった農林水産省の奥原正明事務次官が最近、退任した。官邸の力を背景に農協の上部組織の全国農業協同組合中央会(全中)や全国農業協同組合連合会(全農)に改革を迫る手法は、多くの農協関係者の反発を受けながらも、当初、想像した以上の「成果」を上げた。
その成果の是非を問うのが、今回の目的ではない。特異な個性と意欲をもとに、「奥原農政」とでも言うべきものが続いた時代に一区切りがついたことを受け、今後の農政の課題を一歩引いて考えてみたいのだ。
官邸主導がかつてないほど強まるなか、後を継いだ末松広行次官が奥原氏のような強烈な存在感を発揮するかどうかはまだ未知数。考えたいのはそこではなく、「豪腕」が去ったあとの農政が、日本の未来の食料問題をみすえて何をメーンの課題にすえるべきかを伝えるのが今回のテーマだ。
いまの農政の意思決定のあり方に問題はないのか。足元の農政に欠けている視点は何か。農水省の食料・農業・農村政策審議会の前会長で、福島大学教授の生源寺真一氏にインタビューした。
最近の農政についてどう感じますか。
生源寺:1999年に食料・農業・農村基本法が施行された。それに先立ち、中身を検討した基本問題調査会に専門委員として参加した。調査会を作るとき、「国民にわかる形で議論する」ということがものすごく強調された。当たり前の話だが、それを強調せざるをえない状況にあったのだと思う。
いまでも覚えているが、あるとき、経済界の代表と農協の代表が隣り合わせで座っていて、会議が終わったとたん、2人でつかみ合いの喧嘩を始めた。形式的に「シャンシャン」という議論ではなかったことの証左だ。次の回は2人は離れて座っていた。そういうことが起きるくらいまでつっこんだ議論をした。
いまは規制改革推進会議(首相の諮問機関)から意見が出てきて、審議会などではほとんど議論していない。
規制改革推進会議ですらあまり議論していないのでは。議事録を見ても、なぜああいう提言が出てくるのかわかりにくいときがあります。
生源寺:それもある。水面下でやっている議論はあると思うが、外には出てこない。だらだらとオープンな場で議論することばかりがいいとは思わないが、種子法の廃止とか、あれだけ多くのテーマがあれほどのスピードでどんどん決まっていくというのは、通常の政策決定では考えられない。
2002年の生産調整研究会では座長を務めた。このときも相当議論したが、誰が何を言ったのか、トレースできる内容になっているはずだ。ところが、いまはトレーサビリティーが確保されていない。
農地を担い手に集める農地中間管理機構(農地バンク)も政権の成果を示すための道具になっているように感じる。例えば、農地バンクに農地を預けた地権者に対し、一定の条件のもとで数十万円の協力金を支給する仕組みがある。借地料を利用者から受け取る人に、さらにお金を出すというのは、いまの財政事情を考えればいかがなものか。「農政って何なの」と言われかねないことを平気でやっている。短期間に成果を上げるのが目的だ。
多くの農地を農地バンクを通して集積すると言っているが、それを実現して見せるために協力金を使っているとしか思えない。いまの政権のもとで農政でこれだけ成果が上がったということを示そうとしているのだろう。
農地問題は、10~20年のスパンで見ればなるようにしかならないものだと思う。「うちではとても耕作できないから、誰かに作ってもらいたい」という農家がいて、その農地を担い手が引き受ける。受け手のほうにしても、あまりにたくさんの農地が来たら危ないと考えるものだ。責任を持って規模拡大のテンポを決めることができるのは、経営者だ。
農政は食料政策の意識が低くないですか。
生源寺:1961年制定の旧農業基本法は、経済成長にどう農業の発展を適応させ、農家の所得を増やすかを目標にしていた。これに対し、新しい基本法は国民がまずあり、国民のための食料政策が必要だということを基本にすえた。
良好な環境の形成など農業生産活動の多面的機能の恩恵を受けるのは、基本的には非農家、あるいは国民全体だ。農村には非農家の人もけっこう多い。新基本法は農業の外側の人たちをかなり念頭に置いた組み立てになっている。食料政策と農村政策、農業政策を分け、その中でも食料政策を前面に出したことじたいは画期的だった。
2007~2008年に国際的な穀物相場が高騰したことは、国民の関心を高めるうえで意味があった。その後は南米の生産力が向上するなど割と生産が順調なのはラッキーなことなのだが、食料についてはリスクを考えておく必要がある。最近の災害でそのことを局所的に経験している。
いま食料は選ぶのに迷うほどあるが、絶対的な必需品だということを再認識すべきだ。じつはそれを政策の担当者が再認識することが大事で、そうすることでいろいろな発信があり得る。
食料・農業・農村政策審議会の会長を務めていた2015年に、新たに食料自給力という概念を打ち出しましたね。試算によると、栄養バランスを考えず、国内の農地でイモを中心に作れば、国民が必要なカロリーを28%上回るが、栄養バランスを考慮してコメや麦、大豆を中心に作ると必要なカロリーが30%不足するという結果が出ました。
生源寺:(国民の食料を実際にどれだけ国産でまかなっているかを示す)食料自給率が下げ止まっているのと対照的に、自給力は下がり続けている。そのことを示そうとしたが、「危機感をあおるため」「またやってるよ」という言い方をした全国紙もあった。
自給率はいろんな要素が関わっていて、分母になる「食べる量」が減っているので、率が高まるというファクターもある。これに対し、(食料の潜在的な供給力である)自給力を示したのは意義のあることだと思っている。ただ今回は一定の条件を与え、数学の問題を解くように農水省が試算した。今後は栄養学や医学関係の人も入れて、もっと深い議論をすべきだと思う。
ところが、農水省はあれ以降、自給力のことをあまりアピールしていないように見える。国民にとって食料とは何なのかということを、もう一度、真剣に考える役所になることが必要だ。平成時代に入ってからのほうが、食料の供給力の点では深刻だということを伝えるべきだろう。
イモが中心の食生活でも、いずれ十分なカロリーを供給しきれなくなる恐れもあるのではないですか。
生源寺:そうなる可能性はある。緊急時に農地に戻すことができる土地を含め、農地を耕す人がいるという前提で計算している。仮に全農地の3分の2しか耕すことができないなら、あっという間に事態は変わってしまう。
耕作放棄地の問題に関して言えば、中山間地とくに山間地域の多くはずっと農産物を作り続けるのは難しいと思う。むしろ防衛線を決めるべきだ。
耕している人がいるうちは、道路を最も奥の集落までつないでおき、フローの供給を続ける。例えば、高齢の夫婦がいるうちはサポートする。ただ、投資をして次の世代まで農地を守ることについては断念するという決定をしなければならない。ここまでが防衛線で、ここまではいま住んでいる人がいなくなったら後退するということを決める。
いまの状態でいくと防衛線もなにもなくて、どんどんドミノ倒しで崩れていってしまう恐れがある。地形や鳥獣被害の問題は地域ごとの事情があるから、線を引く際は、現場の専門の農政担当者を交えて議論する必要がある。そのうえで「ここは10~20年後は撤退する」と決め、防衛線から下の部分は絶対に守る。そういうことを考えるべき時期に来ている。
いまは一種の印象論的な話で終わってしまっていて、国としての大局的な方針がない。ある意味、「全部守る」みたいな話で、言っている人はそれでいいかもしれないが、実際は難しい。
どうやって「耕す人」を確保すべきでしょう。
生源寺:いまや20代から40歳くらいまでの新規就農者の半分くらいは非農家の出身で、農業法人への雇用就農が大勢いる。農業に関して変な先入観のない若者たちだ。法人に就職する前に大学の修士課程を修めている人も出てきている。働き盛りでやる気のある人が農業の世界に入ってきていて、農作業をするのが農業という感覚ではなく、経営者として育っていく。
全体として非農家の出身者が増え、しかも自分の生まれたところではない場所で農業をやる人がたくさんいて、有機農業に魅力を感じている人も大勢いる。新しい世代の農業教育のあり方を考える必要がある。若者や子どもも含めて次の世代を育てるための農業教育だ。結局、食料の問題は、技術や土地を使うことのできる人間がどれだけいるかという点に尽きる。
都市近郊では市民農園が盛んです。あそこでサラリーマンをリタイアしたシニアと孫が一緒に農作業したり、祖父母の作った農産物を孫が食べたりすることで、将来の担い手の芽を育むことができるのではないでしょうか。
生源寺:まったく同感。すでに新規就農者の半分は60歳以上だ。会社勤めをやっているときは農作業を妻に任せていた人など、いろんなタイプはあるが、そういう人たちが小ぶりの農業をやったからと言って、全体の構造改革にブレーキをかけるほどのものとは思えない。父母は農業にまったく関係していなくても、祖父母が農業をやっていたことで農業に興味を持ち、農業の道を選ぶ人がけっこういる。
祖父母と土に触れることが持つ意味はものすごく大きい。問題はそこからどうやって農業に進むかだが、たとえ農業のことを選ばなくても、農業のことを理解する人が広がることじたいに意味がある。
現政権は農業を成長産業にすると言ってます。
生源寺:成長が実現するのは悪いことではない。それぞれの経営者がそれぞれベストを尽くし、できるだけ早くいい成果を出そうとするのは当然のことだ。だが、国の政策として、本当にそれでいいのかと思う。
30年間で獲得可能なパイがあるとして、それを最初に全部持ってきてしまうということは、例えば次の20年に非常に大きな負担をかけることがあるということを考えるのが、国ではないかと思う。
ぐんっと上げるだけ上げてというのは、果実をばらまくという政治的な意味ではいいのかもしれない。だが、国の本当のあるべき姿として見ると、じわりじわりの成長というくらいのことを考えるべき時期に来ていると思う。
食料問題と農業問題のつながりという話で、きちんと説得力のある提案ができるかどうかだ。幸いこの国の国民、若い人も含めて食べ物に対する思いは依然として高いと思う。それこそ食品産業の就職人気も高い。
食に対する強い関心というものがある。それを最近の一部の週刊誌みたいに変な取り上げ方ではなく、正攻法で食料問題と農業問題のつながりをきちんと伝えるべきだと思う。新基本法じたいそういうものとして作ったはずだ。ただ、農政は基本法というものを意識しているのだろうか。
「近年に始まったことではないが、農業や農政をめぐる議論には白か黒かの二項対立図式の言説が多すぎるように思う」
生源寺氏が著書「日本農業の真実」(2011年)に記した一節だ。農業と農政が抱える問題を示す言葉として、これほど的を射た表現は少ないと思う。
筆者がくり返し読んだ生源寺真一氏の「日本農業の真実」
「日本の農業は成長できる」「農業が国際競争力を持つのは無理」「農業は企業に脱皮すべきだ」「農業を担うのは今後も家族経営」「悪いのは農協」「農協しか農業を救えない」などなど。それぞれの論点で論陣に分かれ、妥協を許さないような厳しい批判を応酬する。
「どちらにも一理ある」といったあいまいな議論をしたいわけではない。だが、食料と農業の問題はどうやっても単純に割り切ることができない面がある。そもそも食料と農業の問題は別物だからだ。
農家の経営環境にとってもっともラッキーなことは、極論すれば自分以外の多くの農家が廃業することだ。収益性は格段に高まるだろう。いま現実に進行しつつあることはそういうこと、つまり生産基盤の弱体化だ。だが、国民の食料問題の観点から見て、それがハッピーなことであるはずがない。逆に言えば、食料が捨てるほど余っているから、農業経営はこれほど深刻になった。戦後の食糧難までさかのぼれば、両者は同じ土台の上でシーソーゲームを演じてきたようなものだ。
今後の農政の方向を考えるうえで出発点になるのは、生源寺氏が指摘するように防衛ラインを決めることだろう。農協改革と比べて政治的にはるかに重圧を伴うテーマだろうが、それが明確にならないと、今後どんなタイプの農業と農家と農業技術が必要になるのかを考える手がかりがつかめない。もちろんそれは、一部の政治家と官僚が密室で決めるべき課題ではない。
生源寺氏が語るように、だらだらと議論すべきときではないのは当然だ。かつてのように、審議会が役所のかくれみのになるのも論外。だが一方で、腰をすえ、オープンな形でグランドビジョンを描かない限り、食料と農業という共通の土台のもとにはあるが、性質の異なる重い課題にバランスを持って応えることはできないと思うのだ。
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記事掲載当初「種苗法」としていましたが「種子法」の誤りです。本文は修正済みです。お詫びして訂正します。 [2018/8/10 21:00]
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