自らリスクを背負い、一歩踏み出すことで、人がいかに変わっていくかが今回のテーマ。紹介するのは、有力農業法人のこと京都(京都市)をやめ、独立してネギの栽培に挑んでいる田中武史さんだ。2年ぶりに会った田中さんは、すっかり「経営者の顔」に変わっていた。
倉庫から事務所へ
田中さんがこと京都で働き始めたのは、いまから16年前。おもに生産部門の責任者をしていたが、40代半ばになり、「作業を覚えたら、独立したい」という、かつてこと京都に入ったころの思いが頭をもたげ、ひとり立ちした。こと京都で長年働き、農業ビジネスの難しさを知ったうえでの決断だった。
独立から間もないころに取材し、この連載で紹介したときは、「真っ黒に日焼けし、充実した表情で(質問に)答える」という表現で、田中さんの様子を伝えた(2014年5月16日「農業を救うのは、『土』か『机』か」)。こと京都にいたときは、やや線の細い印象を受けたが、独立後は「目の前にある畑がお金に見える」と語るようになった。サラリーマンでは持てない感覚だろう。
というわけで今回も、畑と格闘し、一段とたくましくなった田中さんの姿を想像しながら取材に行った。だが、京都府亀岡市にある事務所を訪ねると、予想と違い、すっかり日焼けが落ちた田中さんが待っていた。そのわけは後述するとして、まず、どんな経営をしているかに触れておこう。
「農家ではなく、経営者になりたい」と話す田中さん。その一歩を踏み出した(京都府亀岡市)
「事務所」と上に書いた。前回、取材したときは、トラクターやスコップなどの農機具が並ぶ倉庫のなかで話を聞いた。今回はこれが一変。小さいながらもれっきとした新設の事務所には、パソコンやプリンターが置かれ、応接用の机もあった。隣接する作業場では、大勢の職員がネギの出荷の準備をしていた。
インタビューが始まるとすぐ、タンクトップ姿の30代の従業員が、「社長、ちょっと」と言いながら部屋に入ってきた。黒々と日焼けした姿が、どちらかというと色白の田中さんと対照的だ。トラクターが故障したとのことで、田中さんが何ごとか指示していた。
田中さんが農業法人の「西陣屋」を亀岡市で立ち上げたのが2年前。畑の面積はすでに6ヘクタールに拡大し、年内にさらに2ヘクタール増える見通しだ。法人化する前の初年度に1600万円だった売り上げは、わずか3年で8000万円を超すまでになった。
業容の拡大そのものも目を見張るが、特筆すべきはその内容の変化だ。最初の年はネギを育てると、こと京都の従業員に畑に来て収穫してもらった。こと京都はそうして農家から集めたネギを、カットするなどの加工を施し、飲食店やスーパーに販売している。2年目は、3分の1は自分たちで収穫し、要らない葉をとり、洗ってからこと京都などに出荷した。
3年目の変化
大きく変化したのは3年目。こと京都の従業員に収穫してもらうやり方は夏にやめ、7割は自ら収穫してこと京都などに出荷し、残りはラーメン店やお好み焼き屋などに直接販売した。
販売方法の変化はそのまま売り上げにはね返る。こと京都の従業員に収穫してもらう方法の売り上げを1とすると、自ら収穫し、こと京都などに出荷する場合はその1.5~2倍、飲食店に直接売るとさらに3倍程度に増える。しかも、直接売るほうが利幅もいい。
こうして、田中さんはたんにネギを栽培する農家から、農業経営者へと成長した。従業員を雇って法人化することは、独立当初から考えていたことだ。ただし、「最初は手探り。右も左もわからない状態で、人を雇うことはできませんでした」。いまは、5人の社員を含め25人のスタッフを率いるまでになった。
これが、田中さんの日焼けが落ちた理由だ。「現場には出られなくなりました」。いまも、朝6時過ぎに事務所に来て、現場の責任者と打ち合わせはする。どの畑でネギをどれだけ収穫し、雑草を刈るかなど、作業計画のすべてを現場に任せるにはいたっていない。ただし、農作業じたいは現場の仕事。田中さんには出荷伝票の管理など経営の仕事が待つ。
とくに重要なのが営業だ。ネギをつくったあと、こと京都などに出荷するだけではなく、直接飲食店に売るから、大勢の従業員を雇うだけの利益を出せる。今秋には、出荷のための作業所の横に加工場をつくり、自らネギをカットしてから販売することも計画している。これで利幅はさらに大きくなる。
栽培から営業へ
こと京都にいたときは栽培の担当で、営業をしたことはなかった。はじめの一歩は去年の10月に踏み出した。ラーメン店の雑誌を手に、事前のアポイントメントなしで名古屋を訪ねた。早朝や深夜など客のいない時間を見計らい、2泊して約40軒を飛び込み営業した。
「京都から来ました。もしよければ、サンプルを送らせていただきます」。こう言ってラーメン店を回り、好感触を得たのが2軒。京都に戻るとすぐサンプルを送り、契約に成功した。「うれしかったとしか言いようがないんですけど、まあ必死でしたよね」。
アポなしで営業して2軒も契約をとれた理由は2つある。味がいいのは前提。もう1つは、売り先のラーメン店が京都の九条ネギに対して漠然と抱いていたイメージより、値段が安かったことだ。地元の京都ではなく、まず名古屋を選んだ理由はそこにある。
その後、大阪で開かれた食品展示会に出品して8軒増えたことではずみがつき、いまや売り先は40軒以上になった。手書きで伝票を処理するのは量的に難しくなり、パソコンを使うようになった。
ちなみに、古巣のこと京都を率いる山田敏之さんに会うと、あえて表現すれば「吉本風」というか快活で、いかにも営業が得意そうな印象を受ける。一方、田中さんはどちらかというと物静かで、立て板に水でセールストークが飛び出すような印象は受けない。
パソコンを導入し、使わなくなった紙の伝票。営業努力の結晶だ(京都府亀岡市)
そこで愚問と知りつつあえて聞いてみた。「営業は向いていると思いますか」。田中さんは「ぼくは向いてません」と答えたあと、こう言い直した。
「人前でわあっとしゃべれる山田社長と違って、初対面だと緊張しますよね。でも、向いてるとか向いていないとか、好きとかそうじゃないとか、そんなの関係ないです。足を踏み込んだ以上、前に進んでいくしかないんです」
「不安」の先へ
田中さんはこのあと、「畑に出たときと同じ」とも語った。独立して畑で作業を始めたころ、炎天下で雑草を抜くときも、水をまくときも、つい妥協しそうになる自分に負けないようになった。「それが今度は営業になっただけです」。それが経営というものだろう。
ここでつけ加えておくと、田中さんは古巣のこと京都との取引をやめるつもりはない。売り上げや利益の面では直接販売に届かないが、契約した分を確実に引き取ってもらえる安心感は、経営上、大きなメリットになる。両者のバランスをとりながら、売り上げを5億円まで増やすのが当面の目標という。
もちろん、軽い気持ちで達成できる数字ではない。インタビューの最後に、田中さんは「重圧があります。毎日不安ですよ」とも話した。ネギが倒れはしないか。売り先に契約した量を収穫できるか。従業員にちゃんと給料を出せるか。夜寝る前に、ふとそんなことが頭をよぎる。「山田社長のやってきたことが、ようやくわかってきたんです」。
以上が、独立して3年が過ぎた田中さんに関する報告だ。自然や植物が好きだから、農業を始めるという人は多い。だが、売り上げが増え、人を雇い、リスクと責任を負うようになると、違った風景が見えてくる。「経営する不安」というサラリーマン時代にはなかった緊張感のなかで、田中さんはこれから何をつかみとっていくのか。機会をあらためてまたご紹介したい。
兼業農家の急減、止まらない高齢化――。再生のために減反廃止、農協改革などの農政転換が図られているが、コメを前提としていては問題解決は不可能だ。新たな農業の生きる道を、日経ビジネスオンライン『ニッポン農業生き残りのヒント』著者が正面から問う。
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