農林水産省の若手官僚の有志が今春まとめたリポートのことがずっと気になっている。「この国の食と私たちの仕事の未来地図」と題したリポートには、20~30年後に想定される日本の食料事情として次のような一節があった。
「世界の至るところで、ブラジルと同じ状況が起き、日本は有事の際に、食料調達が困難になる。また、平時の日本では、国内の食料価格が高騰し、中間層以下は食料アクセスができなくなる」
農水若手官僚の有志のリポート「この国の食と私たちの仕事の未来地図」
ここで「ブラジルと同じ状況」というのは、穀物の一大生産国、ブラジルで中国勢などに押され、日本企業の「買い負け」が起きていることを指す。
農水省の若手官僚たちは、空想でリスクを指摘したわけではない。彼らが参考文献として挙げているマッキンゼー・アンド・カンパニー日本支社のリポート「『グローバル食料争奪時代』を見据えた日本の食糧安全保障戦略の構築に向けて」(2017年12月)も次のように記している。
「日本の相対的な経済規模の縮小に伴い国際市場での購買力が低下し、輸入がままならなくなる状況も予測される」
若手官僚のリポートは全体として「ワクワクするような未来」を創造することを目標にしており、上記の文章もリスクシナリオを防ぐために提起したものだ。マッキンゼーのリポートも食料危機の可能性を強調するのが目的ではなく、「食料価格が不安定になる懸念は依然として残るが、劇的に需給が逼迫するとは考えにくい」と強調している。
ただし、食料の多くを輸入に依存する日本が何も手を打たずにいれば、今のままの食生活を維持できなくなる可能性はある。中国やインドなどの新興国の所得向上やアフリカや中東の人口増加で、世界の食料需要は今後も増大が見込まれるからだ。一方、今も日本は中国に次ぐ世界2位の外貨準備の保有国だが、よほど成長率が上向かない限り、相対的な国力は低下する。
2つのリポートは、そのことに警鐘を鳴らしている。ところが、日本の足元の食料事情は、けして杞憂(きゆう)とは言い切れないリスクシナリオを覆い隠す。膨大な食料を捨てている「飽食の国」だからだ。
食品が日々、捨てられていることを多くの人は感じているだろう。だが統計を見ると、その量が想像を大きく上回っていることに驚かされる。農水省によると、まだ食べられるのに捨てられた食品の量は、2015年度の推計で646万トン。国連の食糧支援機関「国連WFP」による世界全体の食料援助量が320万トンだから、その2倍の量を捨てていることになる。
食品の「廃棄の現場」は広範だ。646万トンの内訳を見ると、食品メーカーが140万トン、小売りが67万トン、外食が133万トン、卸が18万トンを占める。廃棄の理由は売れ残り、規格外品、返品などだ。だがじつは廃棄が一番多いのは家庭で、289万トンに達している。食品ロス問題は、消費者を含めた多くの人が「共犯」の関係にあるのだ。
日本人は「国産志向」だとよく言われる。例えば、スーパーで野菜を買っている人に「日本の食料自給率は4割です。どう思いますか」と聞けば、「心配です。国産を買って応援します。子どものためにも、中国産は買わないようにしてます」などと答える人がいるだろう。これは、中国産が本当に「危ない」かどうかとは分けて考えるべき問題だ。
だがこうした消費者の中で、総菜を買うときや、レストランで食事をするとき、国産かどうかを確かめる人がどれだけいるだろう。おそらくは、「自給率が低いから心配」というのはうわべだけの反応で、まだ食べられる食品を捨てまくっている飽食の国だと「腹の底」ではわかっているのだ。戦後の食料難のときの「もったいない」の精神は遠い過去の話になってしまった。
では、日本の歴史上、国民が初めて経験しているこの「ぜいたくで幸せな時間」はいつまで続くのだろう。確かに今のところ、食品は捨てるほど余っている。だがその中には大量の輸入食材も混じっている。そしてその陰で、静かに危機が進行している。国内の生産現場の崩壊だ。
農水省の調査によると、2015年の耕作放棄地の面積は42万3千ヘクタール。25年間で2倍近くに増えた。
耕作放棄地。この写真を撮っているとき、棒を持った子どもににらまれた。
今も記憶に残る子どもの険しい表情
放棄地は農村に行けばいたるところにある。田んぼや畑の近くに雑草が茂った一画があれば大抵は放棄地だ。一般の人は注意を払わないと気がつかないが、まじめな農家は目ざとく気づいて眉をひそめる。誰も耕さなくなったそういう農地が、富山県の面積に匹敵する広さにまで拡大した。
ある中山間地で、棚田の放棄地を取材したことがある。かつて田んぼだった場所を前に写真を撮っていると、小学生くらいの子どもが走ってきて、長い棒を両手に持ち、筆者をにらんで仁王立ちになった。案内してくれた農協の職員によると、棚田の地権者の家の子どもだという。
なぜ子どもがにらんでいたのか最初はわからなかったが、そのとき撮った写真をあとで見て、気がついたことがある。耕作をやめた田んぼにもかかわらず、雑草が刈ってあったのだ。近くに農地のない孤立した場所の田んぼなので、雑草の種が周囲に飛ぶことを心配しているわけではないだろう。おそらくは、たとえ耕作を諦めていても、代々受け継いだ田んぼが荒れ放題になるのに耐えられなかったのではないか。
そういう複雑な思いのこもった田んぼを、見ず知らずの人間がパシャパシャ写真に撮っている。子ども心にその様子を黙って見ていられなかったのだろう。そのときの子どもの険しい表情を思い返すと、今も何とも言えない気持ちになる。だが、コメを作らなくなった田んぼの雑草をきれいに刈り取る努力も、いずれは途絶える。そして雑草が生い茂り、雑木が生え、自然に帰っていく。そういうことが、いま日本中で起きている。
主な食料生産国が不作に見舞われたら
ここで改めて世界に目を向けてみよう。もし、食料の主要な生産国が天候不順で不作に見舞われたらどうなるか。世界はそれを2007年から08年にかけて経験した。黒海沿岸の干ばつや欧州の長雨、オーストラリアの干ばつなどの影響で小麦の生産が落ち込み、影響は他の穀物にも拡大。08年の小麦とトウモロコシの国際価格は06年の2倍に跳ね上がった。
しかも重要なのは、作況だけの影響で高騰したわけではないという点だ。2001年の世界貿易機関(WTO)加盟をきっかけに中国が爆発的な成長過程に入り、油や飼料に使う大豆の輸入が急増していた。米国はトウモロコシを政策的にバイオ燃料に回していた。そこに不作が重なり、国際的な穀物相場に投機マネーが流入して高騰を増幅させた。穀物の輸出規制が各国に広がり、アフリカやアジアの途上国で食品価格の上昇を受けて暴動が起きた。
これが食料問題の難しさだ。中期的に見て、あるいは国際的に見て需給がバランスしていても、ある瞬間、局地的に不足しただけで社会をパニックに陥れる。輸出国が天候不順で国内のフードセキュリティーを重視して禁輸すればそのリスクが顕在化し、世界のフードセキュリティーを脅かす。
日本も、2011年の東日本大震災で起きたことを思い出せば、食料問題の難しさを理解できるだろう。コメやパンの流通が滞る懸念がちょっと浮上しただけで、消費者が買いだめに走ってコンビニやスーパーの店頭から多くの食品が姿を消した。食料はならしてみて過不足ないという状態では社会の安定を保つことができない。常に余裕があって初めてそれは可能になる。
今後も世界の食料需要は増大し続ける。それは、生産技術の向上による単収の増加で、カバーできる範囲にとどまる可能性が大きい。だが、天候不順が集中的に起きれば、短期的に食料不足の懸念が高まる可能性がある。世界の需要が減ったり停滞したりしているのならともかく、増大するプロセスにあるから、リスクはいっそう鋭く認識される。そこで生産国が国境を閉ざせば、世界はパニックに陥る。余剰が前提の食料問題の宿命だ。
そびえ立つ上海の高層ビル。中国の拡大する「胃袋」が世界の食料問題を左右する。
そうした中で日本は、国内の生産基盤の弱体化と、相対的な国力の低下による国際市場での「買い負け」のリスクに直面する。「この国の食の未来地図」を明るいものにするためには、安定して海外から食料を調達し続けるための戦略の構築と、国内の生産基盤の崩壊を防ぐための方策が必要になる。
この連載では、これまでの常識を超える生産量を誇る植物工場や、生産効率を抜本的に高める新しい技術を取り上げてきた。斬新なアイデアとたゆまぬ努力で新しい農業のかたちを追求する経営者たちも紹介してきた。
農業の未来は日本の未来でもある
彼らは農家というより、ベンチャー起業家と言ったほうがぴったりくる。だが一方で、農業に携わっているがゆえに、一般のベンチャーとは違ったミッション性も帯びている。食料の生産を支えているからだ。だから補助金で守るべきだと言うつもりはないが、彼らの努力の価値がことのほか重いことに思いをはせるべきだろう。
5年前、「ニッポン農業生き残りのヒント」というタイトルでこの連載を始めたとき、頭にあったのは「どうすれば農業を再生させられるか」ということだった。だが最近、このテーマは農業という「都会にとって異質な世界」を扱っているのではなく、食料問題まで射程に入れているのだと思うようになった。農業の未来は日本の未来でもある。そう意識しながら、取材を続けたいと思う。
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