農業で情報システムの活用が始まっている。「勘と経験に頼る農業からの脱皮が必要」と言われて久しいが、かつては開発側の思惑と現場のニーズにギャップがあった。開発者の発想があまりに優先されるとシステムが複雑になり、現場の農家にシステムを使いこなすスキルが少なかったからだ。
両者の溝に気づいたことが、情報システムの活用が活発になったことの背景にある。開発側は収量の増加やコストの削減に直接結びつき、農家にとって使い勝手のいいシステム開発に力を入れ、農家の側もシステムへの抵抗感が薄れてきた。そうした具体例の1つとして、この連載ではベンチャー企業のルートレック・ネットワークス(川崎市)が明治大学と共同で開発した「ゼロアグリ」というシステムを紹介した(1月26日「センサー農業の極意『一番知りたいことは測らず』」)。
ゼロアグリは土耕で作物を育てる栽培ハウスが対象。地面から浮かせた栽培棚で育てる「隔離ベッド方式」が養液などをコントロールしやすいのに対し、ハウスとは言え、地面で育てる土耕は養液が土に染み込んで拡散するので環境制御が難しかった。ゼロアグリは気温や湿度、日照量、地温、地中の水分量の相関をAI(人工知能)で解析し、植物が光合成などで使った水分量を推計することで、養液の供給量の制御を可能にした。
専業から第1種兼業、第2種兼業へ
だが、それだけで記事が終わってしまうと、この連載の趣旨から逸脱する。開発側の狙いだけでなく、現場の生産者の生の声を伝えるのが連載のモットーだからだ。そこで、ゼロアグリを実際に導入し、生産効率の向上に努めている39歳の若手農家を訪ね、話を聞いてみた。栃木県宇都宮市の郊外でトマトを栽培している長嶋智久さんだ。
「雇用で地域に貢献したい」と話す長嶋智久さん(宇都宮市)
まず、長嶋さんがゼロアグリを導入するまでの経緯について説明しておこう。実家はもともと稲作の専業農家。だが農業だけで食べていくのは難しいと感じた父親は、まず最初にガソリンスタンドで働き始め、次に農協の職員になった。専業農家から第1種兼業農家、第2種兼業農家へと移行するプロセスは、日本の農業で最も典型的な経営の変遷だろう。
ここで長嶋さんの父親がユニークなのは、農協職員にとどまらず、収入を得る道をさらに変化させた点にある。パソコンを修理したり、パソコンを組み立てたりする仕事を始めたのだ。パソコンがまだ「マイコン」などと呼ばれていた時代で、今と違って誰もが持つ簡便な普及品になっておらず、マニアが趣味で組み立てたりする時代だからこそ、成立するビジネスだった。
長嶋さんは学生時代にバンド活動をやっていて、「音楽で食べていきたい」という夢を抱いていた。だが、父親から「忙しいから、手伝ってくれ」と言われ、父親の経営するパソコン店に就職した。2000年ごろのことだ。
「トマトは伸びしろがある」
転機は2006年に訪れた。パソコン店を辞め、家業の一環で手伝っていた農業に専念する道を選んだのだ。安くて機能に優れたパソコンが登場し、個人が自前で組み立てるパソコンのニーズに限界を感じたからだ。
栃木県が推奨し、補助を出してくれる品目は4種類あった。トマト、イチゴ、アスパラ、ニラだ。トマトを選んだのは、手間のかかるイチゴやニラと違い、パートなど雇用労働に頼らずに家族だけでできると思ったからだ。こうして長嶋さんは父親がやっていた稲作とトマトの2品目で専業農家になった。
次の転機は就農から3年目。野菜の生産に携わる全国の農家の大会に呼ばれたとき、レベルの違う栽培技術を知ったのだ。自分を指導してくれた栃木のトマト農家の技術には、今も誇りを持っている。だが、収量を物差しに生産効率を見ると、はるかに高い技術があることを知った。「トマトは工夫次第で面白い。まだまだ伸びしろがある」。刺激を受けた長嶋さんは父親を説得し、コメをやめ、トマトだけで勝負することを決めた。
同じころ、経営面でもう1つ大きな変化があった。栽培するトマトを大玉から中玉に変えたのだ。長嶋さんのハウスは地下水をくみ上げ、その熱で保温する「ウオーターカーテン」という設備を使っている。石油を使わずに保温するのでコストが低い半面、施設の湿度が大幅に上昇するという難点があった。その結果、カビが発生し、トマトの3~4割を廃棄したこともあった。
先輩の農家に教えてもらい、カビを防ごうと様々に工夫してみたが、状況はなかなか改善しなかった。「このままでは生活が成り立たない」。そう思った長嶋さんは皮の厚い中玉に切り替えることで、カビの被害を減らすことに成功した。栽培がうまくいき始めたことと、全国大会で刺激を受けたことが重なり、トマトの増産を決意した。
ゼロアグリのことは妻の絵美さんが県の勉強会で知った(宇都宮市)
こだわったのは「地面の中」
ここまでなら、既存の設備を使いながら、時間をかけて腕を磨いてきたこれまでの農家の歩みと変わらないだろう。だが今は、栽培技術をサポートしてくれるシステムがある。長嶋さんがゼロアグリを導入したのは2017年。各地のハウスを見学に行き、「ITを使わないと、伸びるものも伸びない」と思ったことがきっかけだ。こだわったのは、「地面の中」だった。
この話をするとき、長嶋さんは農業を桶に例えて説明してくれた。桶は細長いたくさんの木の板を筒の形に縦に並べ、金属できつく巻いて中身が漏れないようにしている。だが、木のうちの1本が短いと、そこから中身がこぼれてしまう。1つ1つの木は、農業で言えば水や温度、湿度、光、肥料などを指す。桶の中身は、収量だったり、品質だったりする。
「ゼロアグリを入れるまで10年間やってきて、どの要素が足りないのかを考えていました。最初は気温を上げようとしてきましたが、だんだん地温ではないかと思うようになったんです」
夜間の温度が低い地域ならではの「気づき」かもしれない。長嶋さんのハウスがある地域は、夜に気温がマイナス10度まで下がることがある。ところが、地面を掘ってみると10度くらいあったりする。
では植物にとってはどっちが大事なのか。その答えを探すヒントは、先輩のベテラン農家の言葉にあった。「寒いときは、根っこを動かせ」。寒くても、根が伸びるように環境を整えるべきだという意味だ。
トマトは夏に定植すると、1カ月ぐらいで大きく根を張るようになる。秋に受粉し、11~12月に収穫のピークを迎えるが、ここで問題が起きる。大量に果実を実らせることで木が弱る時期と、地温が下がる時期が重なり、ダブルパンチで次の受粉が滞ってしまうのだ。その結果、トマトの需要が上向く3月ごろに収量が落ちるというミスマッチが生じる。
ゼロアグリが地中に通した点滴チューブで液肥を供給するシステムであることは前回、説明した。最大の狙いは、植物が必要とする水の量をつねに満たすことにある。そのことが、長嶋さんの課題とどうリンクするのか。「土の中に水があるから、地温の変化が小さくなるんです」。生産現場から見た、システムの理解と言うべきだろう。
AIで液肥の供給量を制御するゼロアグリの制御盤(宇都宮市)
「ハチがかんだあとがたくさん」
重視するのは安定だ。温度が激しく変わると、根っこにとってストレスになる。それをAIで管理して防ぐことで、冬でも「根っこが動く」状態をつくる。「最新の技術と昔ながらのやり方がつながったんだと思います」。
ここで言う「安定」には、少し幅がある。長嶋さんが運営しているハウスは今、10棟あるが、地中に入れたセンサーは2つだけ。それだけで全体を管理するから、地温にはムラが出る。長嶋さんは「それでもいい」という。
「思っている通りの管理ができているのは、センサーの近くだけかもしれません。地温を12度に保つのが理想だとすると、離れた場所は8度に下がっているかもしれません。でも、8度で安定させることができれば、植物にとってはストレスの少ない環境になるんです」
センサーをたくさん入れれば、大きく収量が増えるかもしれないが、投資コストもかさむ。費用を無視すれば、栽培面の効果は大きいかもしれないが、それでは経営とは言えない。長嶋さんは「どこで経営を安定させるかを見極めたうえて投資します」と話す。
肝心の結果はどうか。「ハチがかんだあとがたくさんあります」。長嶋さんに案内されてハウスを見に行くと、黄色い花に小さな茶色い点がついていた。「これまで夜音が5度に下がると枯れてしまっていたのに、今年は5度に落ちても花粉がつきました。水が安定しているので、根っこが元気なんだと思います」。比較のために長嶋さんは「ハチがかんでいない花」を探したが、見つけることはできなかった。「この先が本当に楽しみです」。
これからはハウスをもっと建て、農場で働く人を増やすことを目指している。当初は家族だけでやる姿を思い描いていたが、いま目指しているのは「地域の雇用への貢献」だ。これも、先輩から言われた言葉だという。取材では、年上の農家たちが若い生産者を支えている様子もよくわかった。これも農業の美点と言えるだろう。
兼業農家の急減、止まらない高齢化――。再生のために減反廃止、農協改革などの農政転換が図られているが、コメを前提としていては問題解決は不可能だ。新たな農業の生きる道を、日経ビジネスオンライン『ニッポン農業生き残りのヒント』著者が正面から問う。
日本経済新聞出版社刊 2015年1月16日発売
Powered by リゾーム?