浅井氏によると、「高校時代は勉強が中途半端で、もんもんとしていました」。先述するが、浅井氏はいま農場を経営するかたわら、三重大の博士課程でゲノム技術を使ったトマトの品種開発を研究している。だが、高校時代は大学に進むべきかどうかさえ迷っていた。救ってくれたのが、高齢の英語教師だ。放課後の時間を使って英語を教えてくれた。これが英語に興味を持つきっかけになった。

 つぎのステップは大学時代。2年生のとき、米シアトルの近くの農場で3カ月働いて「カルチャーショックを受けた」。従業員が肥料をまくチームや農薬をまくチームなどに分かれ、作業の目的がはっきりしていて、ビジネスとして確立されていた。「日本の農業はちょっとやばいんじゃないかと思いました。自分のやるべきことが分かった3カ月でした」。

 この研修をさかいに、アルバイトでお金をため、大学が休みになるたびに海外の農場を訪ね歩く生活が始まった。欧州から始まり、カンボジア、タイ、ベトナム、インドネシア、中国とバックパッカーの旅を続けた。誕生日はほぼ毎年、海外で過ごすようになった。

世界の農場を訪ねた末に、トマトを選ぶ

 こうした経験がのちに農場経営で生きるようになる。就農したのは20代後半。東京のコンサルタント会社で数年働いてから三重にもどったとき、植木の生産と販売という実家の仕事は先行きが見通せなくなっていた。

 このとき浅井氏が選んだのが、トマトの栽培だった。植木の苗をつくっていたハウスの骨組みのさびを落としてペンキを塗り、ビニールを張ってトマトをつくり始めた。0.5アールの小さなハウスだった。そのトマトが地元のスーパーの社長の目にとまり、今度は4アールのハウスを新設した。

 2年前に稼働した農場と比べればささやかなスタートだったが、いまの経営の原点となる特徴が2つあった。1つは、トマトの糖度を上げる特殊な栽培方法を選んだことだ。それがスーパーの社長から「いくらでも買うから、設備投資をしたらいい」と言われる味のよさにつながった。

 もう1つは、温室栽培システムで世界最大手のオランダのプリバ社のシステムを導入したことだ。ハウス内の温度や湿度、二酸化炭素(CO2)の量を制御する同社のシステムはいまでこそ多くの農場が取り入れているが、当時は日本に数台しか入っていなかった。のちに浅井氏が海外の農場を視察に行ったとき、このシステムを使っていることが「共通言語として役立った」。

浅井氏と話す中国人研究者の呉婷婷氏。中国の大学で農業を学び、三重大の大学院に進んだ(津市の実験棟)