だが、健介さんは「やりません」と断った。取材でその理由を尋ねると、「社員への信義です」と答えた。長年ともにコメを売ってきた社員たちが、会社を離れ、べつの仕事を始める。にもかかわらず、ひとりだけコメの世界に残る気にはなれなかった。社員にも「そんなことはしないよ」と伝えていた。
閉店から2カ月後、2014年の暮れ。圭司郎さんと健介さんは5人の元社員を招き、東京・新宿のマルイにある銀座アスターで忘年会を開いた。「1回目はブラックな企業に入って失敗しても、2度目はちゃんと勤めないといけないよ」。健介さんは、就職先をさがす社員たちにそう話した。「それでは、よいお年を」。そう声をかけ合い、忘年会は解散した。
このお別れ会と前後して、5人とも就職先が決まった。健介さんは今、都内に事務所を借り、つぎの仕事を始めるための準備中だ。「青い空を見上げて、飛行機が飛んでいくのを見ると、自分だけまだ飛べてないなと思います」。
以上が、三島屋が閉店するまでのいきさつだ。日本のコメ消費の全盛時代を体現するコシヒカリとともに躍進し、やがて家庭でのコメ消費の減退と、高級米を求める消費者の高齢化に直面した。
そこでもし、固定客や地元の料理店を相手にした家族経営に徹すれば、細々と商売を続けられたかも知れない。だが従業員を抱える三島屋に、縮小均衡の選択肢はなく、薄利多売の業務用のビジネスに注力していった。そこで待っていたのは、産地が激しく競い合う価格競争だった。そして最後の10年で目の当たりにしたのは、「天下の魚沼コシ」をも脅かす、農業法人の台頭だった。
「森のくまさん」を置き土産に
最後にひとつのエピソードを紹介したい。父親の圭司郎さんがコシヒカリを見いだしたように、健介さんも新たなコメを発見した。日本穀物検定協会が実施した2012年産の食味ランキングで「最高の評価」を受け、人気になった熊本産の「森のくまさん」だ。
きっかけは1993年のコメの凶作だった。冷害の影響で、外国米の緊急輸入にいたったこの年のコメ不足を教訓に、健介さんは西日本の温暖な地域のコメを探した。そして98年に出会ったのが、「森のくまさん」だった。
「コシヒカリより上なんじゃないか」。驚いた健介さんは現地を訪ねて取引を決めた。台風の被害で収量が減ったり、味が落ちたりするなど曲折はあったが、この品種にこだわり続けた。「まさかランキングで特Aをとるとは思わなかった」。三島屋は1999年にこの品種の東京の指定1号店になっていた。
卸の勧めを断り、ブローカーにならず、コメの世界と決別した健介さんだが、日本のコメのブランドの歴史にささやかな足跡を残したと言えるだろう。

『コメをやめる勇気』

兼業農家の急減、止まらない高齢化――。再生のために減反廃止、農協改革などの農政転換が図られているが、コメを前提としていては問題解決は不可能だ。新たな農業の生きる道を、日経ビジネスオンライン『ニッポン農業生き残りのヒント』著者が正面から問う。
日本経済新聞出版社刊 2015年1月16日発売
Powered by リゾーム?