こうして利益率の高い魚沼コシの取り扱いが減るなかで、三島屋の経営は厳しさを増していった。このほか精米設備の老朽化など閉店を決断した理由はいくつかある。だがそのなかでも特記すべきは、銀行の態度の変化だろう。

 きっかけは2008年のリーマン・ショックだった。世界同時不況の後遺症が残るなかで、銀行はこれまでの手形貸付から、通常の融資への切りかえを求めてきた。借り換えを認めず、借入残高を圧縮するよう求めてきたのだ。これで資金繰りが一気に厳しくなった。

「みんなを無事にこの状況から脱出させる」

 銀行のほうから三島屋に廃業を迫ったわけではない。むしろ逆だ。「合理化」をして、事業を続けるよう要求した。そうすることで、当分の間、三島屋から金利収入をえることを期待したのだろう。だが、健介さんは「社員の解雇だけは絶対にしたくない」と拒否した。

 2020年のオリンピックの開催地が東京に決まったことが、迷う健介さんの背中を押した。銀行に言われるまま事業を続け、キャッシュフローが行きづまり、突然倒産して社員に退職金を払えなくなるような事態だけは避けたい。それが、健介さんの一番の願いだった。「五輪開催に向けて都内で仕事が増えれば、みんなの再就職先があるはずだ。やるなら今しかない」。

 社員に店を閉じる決意を伝えたのが、2014年6月。8月のお盆明けごろから、毎朝社員に「心をひとつにしてやめよう」と訴えた。「ケガをしたら、スケジュールが狂う。気をつけて」「閉店セールなんかやらない」「きれいに静かに終わろう」。入って半年たったばかりのアルバイトも、「一緒にやります」と協力してくれた。

 このころ、健介さんは自分の気持ちを、飛行機の副操縦士の心境にたとえていた。「みんなを無事にこの状況から脱出させる。約束する」とくり返し話した。若い社員が「がたがた揺らして着陸させないでくださいよ」と応じた。「なんとか無事着地させたかな」。健介さんは今、そうふり返る。

 そして10月末。三島屋はすべての在庫を処分し終え、約90年の歴史に幕を下ろした。倒産を避けることに成功し、従業員全員に退職金を上乗せして配ることができた。コメの売り先の多くは、全農系の都内の卸に引きついだ。銀行には一度も延滞することなく、返済を終えた。

 この間、健介さんは全農系の卸から「トラブルが起きたときのために、コメの仕事を続けてほしい」と頼まれた。「嘱託の立場で、給料も払う」とまで言われた。バイヤーの意向やクレームの中身を調べ、コメの価格動向をさぐるといった情報収集の仕事を、業界に精通している健介さんに期待したのだった。

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