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 手伝ってみて確信できたのは、農家がとても大切な仕事をしているということだった。だが一方で、毎日朝早くから畑に出て収穫し、夜なべで作業している。「それに比べ、自分は机の上でアプリを作り、ある時刻になったら退社する。それで安定した給料をもらうことができている」。

 就農から15年たったいま、農業が生易しい仕事でないことを肌身で感じている。だが、そういう農業を変えたいという思いが、就農の動機になった。「今から思えばうぬぼれていましたが、何とかしなくちゃいけない、他産業並みに安定した収入を持ち、家族サービスもできる産業にしないといけない。そのモデルを作ってみたいという気持ちが強まったんです」。

 もちろん、家族を抱える身で安定収入を失うことへの不安はあった。だが、もっと大きなプレッシャーとして浮上したのが、自分の年齢だ。「これ以上先送りしたら、農業の世界に入っても、体がついていかないんじゃないか」。そう思い、45歳のときに会社を辞め、退路を断った。

 ただし、就農にいたるまでには若干の曲折があった。週末に農家を手伝っているくらいでは、規定の日数に満たず、農地を借りることができなかったのだ。そこで県の農業会議に相談し、研修先の農家を紹介してもらったが、会社で働きながらでは、やはり日数を満たせず、就農できなかった。最近と比べ、新規就農に対するハードルがずっと高かったという事情もある。

 そこで意を決し、会社を辞めて県の農業学校に1年間通い、就農を認めてもらった。幸いだったのは、三浦市の地主が好意的で、まだ会社で働いているときから、家庭菜園という名目で農地を貸してくれたことだ。農業会議の担当者も農業委員会も、これを応援してくれた。伊藤さんの「絶対ここで農業をやる」という強い思いが、関係者を動かしたのだろう。

痛感した栽培の難しさ

 天命と思って飛び込んだ世界だが、プロになって痛感したのが、栽培の難しさだった。「最初の3年間は全滅した品目のほうが多かった」。ミニトマトが病気にかかり、キャベツが虫にやられて出荷できなくなった。農薬は使っているが、キャベツが結球したあとで農薬をまいても、虫には届かない。タイミングを逸してしまったのだ。経験でしか、克服できない課題だ。

 ようやく黒字になったのが5年目。その間に知ったのが、リスク分散の大切さだった。複数の品目を作っていれば、どれかで失敗しても、別の品目でカバーすることができる。「そういうやり方でしのいできたというのが、本当のところです」。単一の作物を広大な畑で効率的に生産する産地ではなく、都市に近い小規模な農地で栽培する農家にとって主流のやり方だ。

ハウスの中でレタスが元気に育っている(神奈川県秦野市)