透き通るような晴天に恵まれた先週末、神奈川県秦野市の農村を訪れた。取材に向かった先は、ブルーベリーや野菜を栽培している伊藤隆弘さん。15年前、45歳の時に脱サラし、ここで就農した。
「大げさな言い方をすれば、天命だと思って農業の世界に入りました」
伊藤さんは、当時の気持ちをこうふり返る。
就農する前、伊藤さんは三菱電機でコンピューターのエンジニアの仕事をしていた。20年以上にわたり、IT関係の研究開発を担当していた伊藤さんが農業に挑戦した理由は大きく分けて2つある。
1つは、それまでやってきた仕事に疑問を感じたことだ。「IT分野で新しくて便利なものを作ってきましたが、人間はそういうものを作り過ぎているんじゃないかと思うようになりました。これ以上便利なものが、生活の中で必要なのかと感じるようになったんです」。
研究が嫌になったわけではない。「科学技術は趣味としてやるなら、どんどん入り込める。一生続けても面白い」。ただ、生涯の仕事にできるかというと、疑問を持つようになったという。「生活が安定し、ストレスなく一日を過ごすことを目指して、みんなやってますが、それに科学技術は貢献できているだろうか。そうではないと、思うようになったんです」。
もう1つは、30代のころから子どもの弁当を作るようになり、食への関心が高まったことだ。「食べることって大事だと、無意識のうちに考えるようになりました。安心な野菜をどこで買ったらいいのか。どうやって作られているのか。そういうことに、興味を持つようになりました」。
もともと家庭菜園はやっていた。だが、スーパーに並んでいるような見事なトマトやキュウリはできたことがない。そこで当時、鎌倉市に住んでいた伊藤さんは、神奈川県の野菜の一大生産地である三浦市の農家を週末に飛び込みで訪ね、農作業を手伝わせてもらうようになった。「プロの農家のところに行かなければ、農業のことはわからない」と思ったからだった。
手伝ってみて確信できたのは、農家がとても大切な仕事をしているということだった。だが一方で、毎日朝早くから畑に出て収穫し、夜なべで作業している。「それに比べ、自分は机の上でアプリを作り、ある時刻になったら退社する。それで安定した給料をもらうことができている」。
就農から15年たったいま、農業が生易しい仕事でないことを肌身で感じている。だが、そういう農業を変えたいという思いが、就農の動機になった。「今から思えばうぬぼれていましたが、何とかしなくちゃいけない、他産業並みに安定した収入を持ち、家族サービスもできる産業にしないといけない。そのモデルを作ってみたいという気持ちが強まったんです」。
もちろん、家族を抱える身で安定収入を失うことへの不安はあった。だが、もっと大きなプレッシャーとして浮上したのが、自分の年齢だ。「これ以上先送りしたら、農業の世界に入っても、体がついていかないんじゃないか」。そう思い、45歳のときに会社を辞め、退路を断った。
ただし、就農にいたるまでには若干の曲折があった。週末に農家を手伝っているくらいでは、規定の日数に満たず、農地を借りることができなかったのだ。そこで県の農業会議に相談し、研修先の農家を紹介してもらったが、会社で働きながらでは、やはり日数を満たせず、就農できなかった。最近と比べ、新規就農に対するハードルがずっと高かったという事情もある。
そこで意を決し、会社を辞めて県の農業学校に1年間通い、就農を認めてもらった。幸いだったのは、三浦市の地主が好意的で、まだ会社で働いているときから、家庭菜園という名目で農地を貸してくれたことだ。農業会議の担当者も農業委員会も、これを応援してくれた。伊藤さんの「絶対ここで農業をやる」という強い思いが、関係者を動かしたのだろう。
痛感した栽培の難しさ
天命と思って飛び込んだ世界だが、プロになって痛感したのが、栽培の難しさだった。「最初の3年間は全滅した品目のほうが多かった」。ミニトマトが病気にかかり、キャベツが虫にやられて出荷できなくなった。農薬は使っているが、キャベツが結球したあとで農薬をまいても、虫には届かない。タイミングを逸してしまったのだ。経験でしか、克服できない課題だ。
ようやく黒字になったのが5年目。その間に知ったのが、リスク分散の大切さだった。複数の品目を作っていれば、どれかで失敗しても、別の品目でカバーすることができる。「そういうやり方でしのいできたというのが、本当のところです」。単一の作物を広大な畑で効率的に生産する産地ではなく、都市に近い小規模な農地で栽培する農家にとって主流のやり方だ。
ハウスの中でレタスが元気に育っている(神奈川県秦野市)
「こと」を提供する観光農園
販路に関しては、農協が頼りになった。市場で売ろうと思えば、大きさや形のそろった作物をたくさん出荷する必要がある。その点、近くの農協が直売所を開放しているので、作物の大きさや出来具合に応じて自分で値段をつけて売ることができた。初心者にとってハードルの低い販路だった。
就農からすでに15年。当初、掲げた目標の一部は実現することができた。その1つが観光農園だ。伊藤さんはたんに作物を作って売るのではなく、収穫という体験も含めた「こと」を提供することを目指してきた。その結果、ブルーベリー園には毎年1000人を超す消費者が訪れ、トマトやナス、キュウリなど野菜の収穫体験にも700~800人が参加するようになった。
この際、伊藤さんが心がけたのが、「整然としてきれいなプロの農家の畑」を見せることだった。雑草をきちんと管理し、清潔にし、野菜を商品として扱う。サービス色を前面に出した、消費者主導の体験農園ではない。実際、伊藤さんは農協の直売所やスーパーへの出荷を今も続けている。
「元気な野菜はどんな環境で育てられ、届けられているのか。それがいかに大変か。本来、1個100~200円で買えるような手軽なものではないことを、理解してほしい」という。前段で触れたように、これは伊藤さんが就農前、飛び込みで畑を手伝っていたときに得た思いそのものだ。
作業場の壁には「モデル農園を目指す」の文字(神奈川県秦野市)
では伊藤さんの畑は、「プロの畑」としてどのレベルまで到達できたのだろう。「これはかなわない、まだ追いつけないと思う農家が周りにたくさんいます。段取りが良く、ある作物が終わったら、すばやく次の作物を植え、畑が空くことがない」。これは技術の未熟さの告白ではなく、農業技術の充実を追求し続ける姿勢から得た洞察とみるべきだろう。
「マニュアルに書くことはできない。日々の暮らしと経験の中で積み上げたもの。本当に素晴らしいし、そこに歴史を感じることもあります」
これは、20数年にわたってエンジニアの仕事をした経験にもとづく結論でもある。「畑は工場と違い、これが最適と言える方法を絞り込むことが難しい。朝礼で予定を立てても、予定通りいけばラッキーというのが実感です。予期しないことが必ず起きます。起きなかった年など一度もない」。
そこで、伊藤さんがたどり着いた答えは、人が育つ以外に方法はないということだ。いま伊藤さんの畑で作業しているのは妻と、20代の女性社員、それとパートだ。「雑草の取り方一つとっても、効率的と思うやり方は人によって違う。それを認めたうえで、どれが一番効率的かを自分で考えてもらうしかない」。任せることが、畑を回すためのはじめの一歩になる。
最後に、今の農業への思いを聞いてみた。「農業のモデルを作ると意気込んで始めましたが、まだそれがどんなものか見つかってません」。それでも、「農業は天命」という思いは就農した当初にも増して強まったという。モデルとなるべき農業の姿を実現し、次代に託すのが伊藤さんの夢だ。
「農業が好きか嫌いかと聞かれれば、もちろん好きなほうです。でも、好きだということがモチベーションになるとは思いません。農業は自分がやるべき仕事だという思いで、ここまでやってきたんです」
情熱なくして未来は開けず
2013年にスタートしたこの連載も今回で最終回です。
前回触れたように、日本の農業の未来は必ずしも楽観的な状況にはなく、事態を突破するための手がかりは多様性の中にしかないと思っています。ただし、様々な処方箋の底にある共通項は農業への思いであるべきでしょう。農業の特殊性を強調したいわけでなく、情熱なくして未来は開けないと考えるからです。
食と農に関する取材は今後も続けていきます。伊藤さんのように強い言葉で思いを表現はできませんが、記者としてこれからも長く追求したいテーマだと思っています。それでは、引き続きよろしくお願いします!
砂上の飽食ニッポン、「三人に一人が餓死」の明日
三つのキーワードから読み解く「異端の農業再興論」
これは「誰かの課題」ではない。
今、日本に生きる「私たちの課題」だ。
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2018年9月25日 日経BP社刊
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