ヤミ米という非正規ルートで、手探りで事業を展開していた新保さんの挑戦は1970年に転機を迎えた。新潟県経済農業協同組合連合会(現・JA全農にいがた)が東京に事務所を開いたのだ。

 新潟の稲作関係者も、正規ルートで流れるコメに人気がないことをわかっていた。「新潟のコメをだれも鼻にもひっかけない。ビリからトップになるように、一緒に仕掛けてみないか」。新潟経済連の吉原静雄会長は、東京事務所の初代所長の渡辺亘さんにこう語ったという。そのとき、2人が戦略品種として選んだのが、当時はまだマイナーだったコシヒカリだった。

 渡辺さんが東京に来てわかったのが、都内には米穀店が1000軒もあるのに、コメの味にこだわって売っている店がほとんどないということだった。そんなとき、知人のつてを頼って新保さんが訪ねてきた。「コシヒカリを売りたい」。渡辺さんは新保さんを、吉原氏に東京で引き合わせた。

1俵でもいいから「正規ルート」で

 吉原会長は農協の上部組織、全農の専務という要職もかねていた。渡辺さんは新保さんに「米卸の社長はよく来るが、小売店主が専務室に入るのは初めて」と話した。この会見で、新保さんが「1俵でも2俵でもいい、正規ルートでコシヒカリを出してほしい」と訴えると、吉原会長は「あなたなら新潟のコメを一生懸命売ってくれるだろう」と応じた。こうして三島屋は、新潟コシヒカリの東京の専売店になった。

 このとき新潟経済連にははっきりとした戦略があった。味で優れるコシヒカリだが当時はまだ生産量が少なく、まんぜんと売れば各地のコメのなかに埋没する。そこで販路をしぼり込むことで、存在が際立つように工夫した。その戦略上に浮上したのが、東京では三島屋と新宿の小田急百貨店だった。

 百貨店の選定にあたっては、ちょっとした裏話がある。じつは渡辺さんはべつの大手百貨店とも話を進めていた。そこで新潟のコメや果物、畜産物の展示会を開こうとしたが、会場の配線工事がいっこうにはかどらない。このとき事情通が渡辺さんに耳打ちした。

 「食品売り場のポイントの人にそでの下をやったかい」「そんなことしてませんよ」「ピース缶にお札を入れて渡さないと、あそこの社員動かないよ」

 真相は藪のなかだが、少なくとも渡辺さんは「そんなお金、経理処理できない」と感じ、この百貨店との商談はそれ以上進めなかった。こんな経緯にこりごりしていた渡辺さんに、小田急百貨店の担当者は「そでの下なんか絶対受け取らない」と話したという。

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