じつはコシヒカリは、味をよくしようとしてできた品種ではない。原種ができたのは戦時下の1944年。新潟県農事試験場(現・新潟県農業総合研究所)で誕生したが、品種交配の狙いは食味ではなく、病害への耐性だった。当時の食料事情を考えれば当然だろう。1956年には国から優良品種に認められ、コシヒカリと命名された。

 生産が始まると、農家たちはコシヒカリの食味がいいことに気づいた。だがメーンの品種にすることには消極的だった。食糧管理制度のもとで、コメの値段は制度上は一律だったため、味に関係なく収量を増やすほうが売上増につながったからだ。この点で、穂が倒れやすいという欠点のあるコシヒカリは不利で、作付けは広がらなかった。

日本一うまい「ヤミ米」コシヒカリを売る

 では、どうやって新保さんは「うまいコメがほしい」という顧客のニーズに応えたのか。答えはずばり、「ヤミ米」だ。戦時中の配給制の仕組みが色濃く残るなか、新保さんは新潟の産地の米屋のグループと直接つながり、量に限りのあるコシヒカリを調達したのだ。多くの米穀店はさまざまな手を使って政府の統制から外れ、事業を伸ばしていった。

 ちなみにここでは便宜上、よく知られる「ヤミ米」という言葉を使ったが、こそこそ人目をはばかるような商売ではなかった。「日本一うまい新潟コシヒカリ」。新保さんは、そう大書した横断幕を店にかかげた。「目立ちました。20代後半のころ、タオル屋につくってもらったんです」。新保さんは、10メートルもの横断幕を発注したときのことを思い出して目を細めた。

 このエピソードの革新性は、いまの常識からはわかりにくい。当時、米穀店がコメの特色を訴えるとき、「越後米」など産地を大ぐくりにして前面に出すのがふつうだった。これに対し、三島屋は「コシヒカリ」という品種の名前で宣伝した。

 新保さんによると「米店の会合で、年配の人から笑われた」という。いまは「つや姫」「ゆめぴりか」「ひとめぼれ」「森のくまさん」など、品種を競うのが当たり前になっている。その先鞭を、三島屋は独自の感性でつけたのだ。

次ページ 1俵でもいいから「正規ルート」で