2014年の年末、東京・新宿のマルイにある銀座アスターで、ある特別な忘年会が開かれた。「長い間本当にありがとう。みんなが気持ちをひとつにしてくれたおかげで、なんのトラブルもなく店を閉めることができた」。中華料理のコースを囲みながら、このとき80歳の新保圭司郎さんが5人の元社員たちをねぎらった。
いまから40年以上前、まだほとんど無名だった新潟産のコシヒカリを見いだし、東京に広めた米穀店「三島屋」のメンバーが開いたささやかな「別れのうたげ」だった。
閉店からおよそ1年が過ぎ、状況が落ち着いたことを受け、新保圭司郎さんと息子の健介さんにインタビューした。三島屋は創業が大正12年(1923年)。東京都新宿区大久保で90年にわたってコメを売り続けたこの店が閉店した経緯をつづる前に、今回はまず、三島屋とコシヒカリとの出会いから説き起こしたい。

疎開先で食べたおいしいコメを求めて
「新潟のコメはまずいコメという評価だった」。新保さんは、コシヒカリが登場する前の新潟米のことをこうふり返る。いまでは忘却のかなたにあるが、戦後の食料難の時代からずっと稲作の課題は収量の向上で、味は二の次だった。新潟も例外ではなく、「越後米」のイメージはけしてよくはなかった。
1960年代に入るころ、高度成長による所得の向上で、消費者のニーズが変わり始めた。新保さんによると、それは「味噌汁とお新香だけでも食べられるようなお米」だった。いま思えばつつましやかな欲求に聞こえるが、ここには消費トレンドの重大な変化がひそんでいた。コメの味の追求が始まったのだ。
「うまいコメを食べたい」。顧客のそんな声を聞くたび、新保さんが思い浮かべたのが新潟のコメだった。当時は評判がよくなかったが、新保さんには「戦時中に父母と新潟に疎開したときに食べたコメはおいしかった」という思い出が残っていた。「新潟は米所だ。うまいコメがあるはずだ」。そう思って見つけたのが、コシヒカリだった。
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