「私が唯一、オランウータンと心が通ったと思ったのと、どのみちオランウータンとは分かり合えないと同時に思った経験があるんです。リハビリセンターで研究をしている時に、大人メスで攻撃的な個体がいたんですよ。人間も噛むし、ほかのオランウータンの子どもも噛んで怪我させて。私も一回噛まれています。それで、その個体が近くにいるときに、やっぱり噛まれた経験のあるちっちゃい子が一緒にいて、私と2人でガシッと抱き合ったことがあるんです。ああどうしよう、みたいな状況で。お互いがお互いを必要としているってひしひしと感じられたんですけど、でも、その子がふっと手を離して行っちゃったんです。そのタイミングが、私には分からなかった。一方的に切られたみたいな。いや、切るという意識すらなく、行っちゃったみたいな。たぶん、人間とか、チンパンジーなら、そこまでお互いに必要とした後、離れる前にも何かあると思うんですよね」

共感と断絶感のはざまから

 ヒトとヒトだったら、去り際に目と目の会話があったり、得も言われぬ時間が流れたかもしれない。相手がチンパンジーでも、そういったことが起きるかもしれない。ちなみに、動物園でチンパンジーやゴリラを担当してた飼育員が、オランウータンの担当に変わった時にもらす標準的な感想は、「何を考えているのか全く分からない!」だ。

 では、オランウータンの母子と、久世さん母子は、どんなふうにコミュニケーションの仕方が違うだろう。もっといえば、ヒトの子がオランウータンの母や子とコミュニケーションする瞬間がこの後あったとして、ヒトの母である霊長類学者はそこから何を感じ取って言語化するだろう。

 近くて遠い親戚であるオランウータンは、こういう独特の立ち位置からヒトを照らし出す。研究者である久世さん自身も、自らの育児経験も、その合わせ鏡になる。

 そして、豊かなサイエンスは、こんな共感と断絶感のはざまから芽吹く。その先にあるはずの新たな知見を期待したい。

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おわり

久世濃子(くぜ のうこ)

1976年、東京都生まれ。国立科学博物館 人類研究部 日本学術振興会特別研究員。理学博士。日本オランウータン・リサーチセンター事務局長。1999年3月、東京農工大学農学部地域生態システム学科卒業。同年4月、東京工業大学命理工学研究科に入学してオランウータンの行動や生態を研究し、2005年9月に博士号を取得。京都大学野生動物研究センターの研究員などを経て、2013年4月から国立科学博物館人類研究部に所属。著書に『オランウータンってどんな『ヒト』?』(あさがく選書)、共著に『セックスの人類学』(春風社)、『女も男もフィールドへ(FENICS 100万人のフィールドワーカーシリーズ12)』『フィールドノート古今東西(FENICS 100万人のフィールドワーカーシリーズ13) 』(共に古今書院)などがある。

川端裕人(かわばた ひろと)

1964年、兵庫県明石市生まれ。千葉県千葉市育ち。文筆家。小説作品に、少年たちの川をめぐる物語『川の名前』(ハヤカワ文庫JA)、天気を「よむ」不思議な能力をもつ一族をめぐる壮大な“気象科学エンタメ”小説『雲の王』(集英社文庫)『天空の約束』、NHKでアニメ化された「銀河へキックオフ」の原作『銀河のワールドカップ』『風のダンデライオン 銀河のワールドカップ ガールズ』(ともに集英社文庫)など。近著は、知っているようで知らない声優たちの世界に光をあてたリアルな青春お仕事小説『声のお仕事』(文藝春秋)と、ロケット発射場のある島で一年を過ごす小学校6年生の少年が、島の豊かな自然を体験しつつ、夏休みのロケット競技会に参加する模様を描いた成長物語『青い海の宇宙港 春夏篇』『青い海の宇宙港 秋冬篇』(早川書房)。
本連載からは、「睡眠学」の回に書き下ろしと修正を加えてまとめたノンフィクション『8時間睡眠のウソ。 ――日本人の眠り、8つの新常識』(日経BP)、「昆虫学」「ロボット」「宇宙開発」などの研究室訪問を加筆修正した『「研究室」に行ってみた。』(ちくまプリマー新書)、宇宙論研究の最前線で活躍する天文学者小松英一郎氏との共著『宇宙の始まり、そして終わり』(日経プレミアシリーズ)がスピンアウトしている。
ブログ「カワバタヒロトのブログ」。ツイッターアカウント@Rsider。有料メルマガ「秘密基地からハッシン!」を配信中。

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