「なにからなにまで自由に、というわけには、さすがにいきません。例えば、匂いについて、人間は400種類くらいのレセプターを持っているんです。それらがオンオフすると考えただけでも、2の400乗種類の匂いがあることになりますよね。とうていすべて再現することは出来ません。でも、日常的に嗅ぐことが多い数百種類くらいの匂いに限定して考えれば、これまで匂いごとにビンに詰めてその都度、使っていたような香料の種類を10分の1くらいに減らせるんじゃないかと思っています」

 匂いのディスプレイには、「匂いの元」が必要で、従来はブドウの匂いもリンゴの匂いも別々に持ってくる必要があった。でも、鳴海さんの発見を活用すれば、匂いを系統ごとにまとめて、あとは視覚的な効果で補うことが可能になる。例えばVRでグレープフルーツを食べる時に、オレンジの匂いを出せばいいことになる。視覚情報も同時に使うタイプのメディアなら、匂いのディスプレイが相当簡単になるわけだ。ひとつの達成だと思う。

 もっともこの後で鳴海さんが志した研究は、ちょっと違った方向に転がっていく。

「食べ物の味を変えるのは博士のときの研究なんですが、博士の審査の時にある先生に言われちゃったんです。『おもしろいんだけど、味が変わるってそんだけだよね。やせるとか、何かもっといいのないの』って。身も蓋もないなと思いながら、『じゃあ、次、やせるやつやります』って言っちゃったんですよね。それで、調べてみると視覚的な情報と食べる量が関係しているという研究が結構あったんです。人は見た目に引きずられて食べる量を変えてると。じゃあ、VRをつかって見た目の方を変えてやればどうなるか、というわけです」

 題して、拡張満腹感。

 満腹感という「感覚」をもたらす研究という意味では、これまでの「感覚を作る」系統ともいえるけれど、もはや単純な「五感」とも言い難い。VRで感覚を変えるだけでなく、行動をも変える領域へと鳴海さんは足を進める。鳴海さんは前に「感覚を作る」ことと「情動・感情を作る」ことが関心の中心だと言っていたが、その先には「行動を変える」があるらしいことを、ここでは記憶にとどめておいてほしい。

「拡張満腹感」。詳しくは次回に(10月18日公開予定)。(字幕は英語です)

つづく

(このコラムは、ナショナル ジオグラフィック日本版サイトに掲載した記事を再掲載したものです)

鳴海拓志(なるみ たくじ)
1983年、福岡県生まれ。東京大学大学院情報理工学系研究科 講師。博士(工学)。2006年、東京大学工学部卒業。2011年、東京大学大学院工学系研究科博士課程を修了。同年、東京大学大学院情報理工学系研究科の助教に就任し、2016年4月より現職。日本バーチャルリアリティ学会論文賞、経済産業省Innovative Technologies、グッドデザイン賞など、受賞多数。
川端裕人(かわばた ひろと)
1964年、兵庫県明石市生まれ。千葉県千葉市育ち。文筆家。小説作品に、『川の名前』(ハヤカワ文庫JA)、『雲の王』(集英社文庫)、NHKでアニメ化された「銀河へキックオフ」の原作『銀河のワールドカップ』(集英社文庫)など。近著は、ロケット発射場のある島で一年を過ごす小学校6年生の少年が、島の豊かな自然を体験しつつ、どこまでも遠くに行く宇宙機を打ち上げる『青い海の宇宙港 春夏篇秋冬篇』(早川書房)。また、『動物園にできること』(第3版)がBCCKSにより待望の復刊を果たした。
本連載からは、「睡眠学」の回に書き下ろしと修正を加えてまとめたノンフィクション『8時間睡眠のウソ。 日本人の眠り、8つの新常識』(集英社文庫)、宇宙論研究の最前線で活躍する天文学者小松英一郎氏との共著『宇宙の始まり、そして終わり』(日経プレミアシリーズ)がスピンアウトしている。
ブログ「カワバタヒロトのブログ」。ツイッターアカウント@Rsider。有料メルマガ「秘密基地からハッシン!」を配信中。