こんなふうに「嘘力が弱まり」「正直礼賛にもほどがある」社会を象徴するものとして、村井さんは、小学校の教科書と教材集を机の上にぽんと置いた。
この4月から教科になり、教科書も刷新された「道徳」だ。小学3・4年生のものだった。開かれたページでは、「正直」「嘘をつかない」ことの大切さが訴えられていた。
いわく、「正直な心で自分をかがやかせよう」「正直でいようとすることが大切だ。そんな君は、いつも明るく元気にかがやいている」などなど。
「嘘ついたほうがいい場面なんかいっぱいあるのに、もう紋切りで『正直イズベスト』みたいなかんじですね。『自分に正直になれば心はとても軽くなる』って書かれていますけど、そうした『決めつけ』に加えて、心が軽くなることをそんなに奨励するなよって思いますよ。心をそんなに簡単に軽くしちゃだめです。正直はよい、プラス、心が軽くなることはよい、というわけで二重にダメです。これ、自分本位な人を育てませんかね。自分の心が軽くなるからということで正直に振る舞い、それが原因で相手の心が重くなることは当然ある。相手のことを考えながらいろいろ悩むことが重要なのに、悩む前に正直であれと言っているわけですから。もちろん、教科書をどのように運用して授業を展開するかということで変わってくる面はありますが」
多くの社会で正直であることが奨励され、嘘つきは嫌われる。日本では「嘘つきは泥棒の始まり」とまで言われる。その一方で、「正直」を押し通そうとする人は、社会的にとても苦労する人たちでもあるだろう。普通に生活するだけで、人は何度も嘘をつく機会がある。その多くは、「正直」ではないにしろ、無用な摩擦を避けたり、不用意に自分や他人を傷つけるのを防ぐためのものだろう。さらに、人は他人の嘘を見破るのがとても下手だという事実も実験で繰り返し確かめられてきた。こういった事情の中に「嘘」は微妙なかんじでふわふわ浮かんでおり、その機微こそが大事なのかもしれない。
「2、3年前に『嘘つきは倫理的か?』というタイトルの論文が出たんですが、そこでは『正直さ』とともに『仁愛』ということを考えています。ある種の嘘は正直な発言より倫理的だと認知され、正直さと仁愛が対立する時は、仁愛がより重要になるとしています。この論文以外にも、正直さのマイナス面、嘘のプラス面に言及する論考はわりと見ますね」
嘘か正直か、というのは、たしかに「白か黒か」というくらいはっきりしたもののように思えるが、決してそれだけではないことが、心理学研究でも語られているらしい。
村井さんが言うように「嘘の分が悪い」社会になりすぎているとして、ならば、我々にできることはあるのだろうか。背景にある「正直イズベスト」の価値観が強すぎるなら、それでは回らない我々の性質を自覚すべきなのだろうか。
「前に嘘日記のことを話しましたけど、学生たちは嘘について自覚的になる傾向にあります。嘘日記をつけると、感想としていろんなことを書いてきてくれます。『自分が色々な所で嘘をついているのがよくわかった』『ふだん何気なく過ごしている毎日の生活を見直すきっかけとなり、自分自身のためにも非常に役に立ちました』『嘘をつくのは両親がとても多かった』『話を盛り下げないために知らないフリをしたり、意外と人に気をつかっているじゃん!!と思いました』『恋愛感情とか男と女的なことが関わるとあたしは本当嘘ばっかで。これはもう全然書ききれない&処分に困るのでリタイアしました』などなど」
村井さんに見せてもらった学生さんたちの感想はとてもいきいきしており、嘘をつきながら正直に生きる、あるいは、正直に生きながら嘘もつく、つまり、嘘とマコトの白黒はっきりしない場所でダイナミックに「最適」に生きようとする自分を発見した興奮に彩られているように思えた。
おわり
本連載からは、「睡眠学」の回に書き下ろしと修正を加えてまとめたノンフィクション『8時間睡眠のウソ。 日本人の眠り、8つの新常識』(集英社文庫)、宇宙論研究の最前線で活躍する天文学者小松英一郎氏との共著『宇宙の始まり、そして終わり』(日経プレミアシリーズ)がスピンアウトしている。
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(このコラムは、ナショナル ジオグラフィック日本版公式サイトに掲載した記事を再掲載したものです)
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