伝統的な葬儀について、大きな展示があった。

 今はほとんど見られない「葬列」の写真が大きく掲げられている。山田さん自身が和歌山で撮影したもので、とても思い入れが強いコーナーのようだ。

奥の写真がその「葬列」。
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「1994年の調査で撮影したものです。葬列というのは、遺体を運ぶ、あの世に送る儀礼であるとともに、社会関係の再編成の場であるんです。位牌を持っている人を中心にして、死者からだんだん遠くなっていく。誰が列のどこにいて何を持つかによって関係が明白化されて、親族関係を再編成し、認識していく場であった。葬列はすごい重要な機能を持ってたというのが、展示の趣旨です」

座棺、供養絵額、死絵

 ただし、このような葬列を行うには、遺体を持ち運べるようにコンパクトにしなければならない。和歌山では、いわゆる座棺が使われたが、これが結構、今の感覚ではええっというものだ。

「当時、葬儀を手伝っていたおじさん達に聞くと、みんな一度自分で入ってみてるんですよ。お尻からスポッと。そうすると、抜けなくなるんです。それほど狭いんです。じゃあ、現実、遺体をどうやって収めるかというと、膝から首にかけて、グッとさらしで引きつけて、ゆわいて、膝を体に思いっきりつけて、首を押して折って入れないと、入らない。さすがに遺族にはできないので、近所のおじさん達がやるっていうのが役割だった。それが、だんだんと共同体で送り出す葬列がなくなって、単に別れを告げる告別式が浸透していくっていうのが流れです」

 これが1994年のことだ、ということを心にとどめていただきたい。

 本編でも話題にした「遺影」の前段階として、「葬儀絵巻」を挙げたけれど、実はそれだけではない。寺社に飾られる「供養絵額」というものもある。

 そのうちの1つを山田さんは指差した。

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「これは岩手県の遠野を中心にしてあるんですけど、基本的には、不幸な死者を集めて描くものです。ある人が亡くなったときに、その前に相次いで亡くなった夫婦と、さらにその前に亡くなった子どもを一緒に描き込んでます。死後もこんなふうに幸せであってほしい、というように。天寿をまっとうした人は、このような絵額は描かれないんです。不幸にして亡くなった人たちを供養するためのものでもあったわけです」

 そこに、明治時代、別の要素が入り込む。

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「まずは、日清戦争の頃の戦死者なんです。よく見てほしいのですが、絵の中で座敷に入っていないんですよ。ある意味、出征の姿を絵にしている。それは、顕彰の視線なんですね。典型的な明治の軍人、もしくは政府高官の肖像写真の撮り方。それを一緒に描き込んでいる。これが日露戦争の頃になると、肖像画、もしくは写真に変わってしまうんです」

 これは戦死者に対する国の顕彰へと繋がるまなざしだ。

 そして、顕彰の考えは、国が「国葬」をしなくなった後も(最後にして「戦後唯一」の国葬は吉田茂だそうだ)、「社葬」がバブル期あたりまではよく行われていた、という話にもつながっていく。

 さらに、この供養絵額に影響を与えたと考えられる、いわゆる「死絵」の話題になった。