いま日本の葬儀が急速に変わりつつある。と同時に「死」の受け止め方も変容しており、日本の葬儀と死生観はある意味で混乱期にあるという。民俗学の立場から、日本の葬儀と死の受容を見つめ続ける山田慎也先生の研究室に行ってみた!
(文=川端裕人、写真=内海裕之)
かつて共同体の中で行っていた葬儀が、業者だよりになっていく様子を山田さんは和歌山県串本町古座での参与観察の中で見出した。また、新潟県佐渡でもフィールドワークを行い、やはり同様のことが起きるのを目の当たりにした。東京などの都市部では、ずっと前から起きていたことだ。
不連続の連続
死にまつわる儀礼が、日本全国でごっそりと「外注」されるようになって、ぼくたちの社会での死に対する感覚・意識は変わったのだろうか、と当然のごとく気になる。
「葬儀のシステムの変化が意識を変えたというよりは、社会の方向として大きな流れがあると思います。例えば今から20年前にやった調査で、東京でも遺体を自宅に一たん病院から運ぶっていうのは、当たり前だったんです。団地でエレベーターがないところでも、業者さんは抱っこして運んでいました。ところが、10年後に調査すると、直接葬儀場に搬送するのが当たり前になっていました。理由は『家が狭いから』。でも、家が狭くても、もしくは階段しかなくても、10年前はやっていたわけです。なので、その理由は後づけでしょう。葬儀のシステムが変わったことで、死者との接点が薄くなって、死を遠ざけるとか、遺体があると怖い、気持ち悪いとかっていう感覚も出てくる。システムによって観念がつくり出されるところもあれば、そうしたものを忌避するって感覚の中でシステムができ上がっていくこともある。不連続の連続、両方がずれながら連続していくようなイメージですね」
なるほど、そういうメカニズムは想像できる。
今や、葬儀も死も、ぼくたちが普段暮らしている空間からどんどん遠ざかっている。病院で亡くなり、自宅に戻ることなく葬儀が行われ、日常生活からは死が隠される。隣の家で不幸があったとしても、深い付き合いがなかったら、知らないままの場合すらあるだろう。
こういう状況の先に行き着いた状態をなんと表現すればいいのか。
山田さんは、ふと視線を宙に向けてから言った。
「あらためて言われると、難しいなと思うんですけど、要するに、死者をどこで受けとめていくのかというのが、やはり急速に家族化というか、個人化していっていると思います」
死者の受け止めの家族化・個人化?
それは、どういう意味なのか。

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