平成という時代が終わる。この30年、日本人は何を得て、何を失ったのか。国民的なスポーツとして、時代を映す鏡となってきた野球を通じ、考えてみた。

 昭和、そして平成。二つの時代を生きた「巨人」がいる。50歳で引退するまで、中日ひと筋で32年に渡って活躍した山本昌さんだ。1983(昭和58)年のドラフトで中日に入団。2015(平成27)年まで、その左腕を振り続けた。

 山本さんが入団したころはデーゲームともなると、酒臭い息を吐きつつ球場入りし「練習しなくちゃいけないようでは一流にはなれん」とうそぶく無頼派が、まだ幅を利かせていたそうだ。プロ野球選手たるもの、真面目一辺倒ではだめで、遊びでも一流でなくては、と説かれた時代が、確かにあった。

野武士たちにみた夢

 典型例が野武士軍団として勇名をはせた西鉄ライオンズ(現西武)。怪童・中西太選手に豊田泰光選手、鉄腕・稲尾和久投手……。いずれ劣らぬ個性派で、野球も一流、遊びも一流。ふだんは口も聞かないような仲の侍たちが、いざグラウンドに立てば、我先に功を立てん、としのぎを削った。内なる戦いが爆発的なエネルギーを生み、1956~58(昭和31~33)年の3年連続日本一をもたらした。「アマは和して勝ち、プロは勝って和す」という三原脩監督の名言通りのチームだった。

 高度成長期にあって、サラリーマン社会が成熟していくなか、人々は出退社のタイムカードに縛られるようになる。自由に暴れまくる野武士に、人々は「非日常」の夢をみた。

 山本さんが、入団間もないころに接したのは、この純然たる昭和の時代の野球だったわけだ。

 チームスポーツでありながら、当時の野球は個人対個人の要素が強かった。先発、中継ぎ、抑えの分業もなく、打者であればDH制といった専門職もなかった。一人でなんでもやるのが、昭和の途中までの野球。ヒーローの生まれる素地があった。

 稲尾さんは1961(昭和36)年に404イニングを投げ、42勝という記録を打ち立てている。平成プロ野球最後のシーズン、2018(平成30)年の最多投球回数は巨人・菅野智之投手の202イニング。10完投、8完封をマークした菅野投手は今どき珍しく、昭和の香りを漂わせる侍の一人だが、稲尾さんはその倍のイニングを投げていた。

巨人・菅野投手は先発・完投時代の昭和の香りを漂わせる選手の一人
巨人・菅野投手は先発・完投時代の昭和の香りを漂わせる選手の一人

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