ガンジーによって加速された独立運動には、ネルー(初代インド首相)、ジンナー(パキスタン分離独立の立役者)など多くの有力な独立の志士たちが共鳴した。独立運動家の中には、弾圧を逃れて日本で独立運動を展開したビハリ・ボース、A・M・ナイルなどがいた。最後には、チャンドラ・ボースがやって来た。日本人有志、国士たちが彼らを支援した。

独立の英雄ボースの遺骨は日本に眠る

 チャンドラ・ボースは国民会議派の重鎮として独立運動にかかわっていたが、独立のためには武器を持って戦うこともやむを得ないとの考えであり、非暴力派のガンジーなどと袂を分かつことになった。英国の植民地政府の弾圧を受けたチャンドラ・ボースはソ連を頼ろうとしたが果たせず、途中のドイツに亡命した。ドイツにおいて対英戦争に協力したが、人種偏見のあったナチドイツから冷遇された。日本で活躍していたビハリ・ボースは病弱となったため、後継をチャンドラ・ボースに託すこととして、日本政府に対しチャンドラ・ボースを日本に呼び寄せることを提案した。チャンドラ・ボ―スは、ドイツと日本の潜水艦を乗り継いでシンガポールに到着した。

 これに先立って、ビハリ・ボースらはインド国民軍を創設していた。日本軍が英国軍をシンガポールで降伏させると、そこに徴用されていたインド出身の将兵は団結してインド国民軍(Indian National Army)となったのである。チャンドラ・ボースは、インド国民軍を引き継ぎ、インド独立運動の先頭に立つことになり、日本軍による英国との戦いに同調した。チャンドラ・ボースは、1944年10月、自由インド仮政府の樹立を宣言するとともに、米英に対し宣戦布告した。

 1945年8月15日、日本が降伏すると、チャンドラ・ボースはソ連の支援に期待できるかどうかと画策した。ともかく日本を目指すことになったが、8月18日、途中の台北の松山空港で、乗っていた飛行機が事故を起こし、チャンドラ・ボースは死亡した。台湾在住の日本官民が遺体を荼毘に付し、現在杉並区の東高円寺にある蓮光寺が遺骨を引き取った。遺骨は現在でも蓮光寺に安置されている。

次ページ 「全員無罪」を主張したパール判事