若い頃にメンタルの不調に陥っていた私は「頭の中で流れている言葉」を「ひたすら手で書きなぐる」手法に取り組み、不調を乗り切った。
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「手で書くこと」の効果を語る専門家が出てきている。手で書くことは一種のセラピーであり、同時にシンプルな創造性の発揮手法でもある。
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今回は「手で描く」ことの可能性を探る。ホワイトシップの「EGAKUプログラム」は2004年からビジネスパーソン向けに開催されており、累計の参加者総数は約1万4000人になる。企業向けプログラムもあり、バイエル薬品や日立化成が組織変革の手法として採用済みだ。
なぜ手で描くことがビジネスの現場で支持されているのか。ホワイトシップの長谷部貴美社長に聞いた。
絵を描く、それは人の自発的な行動
EGAKUプログラムを通じて、絵を描くビジネスパーソンが増えていると聞きました。絵を描くことでどのような効果が得られるのでしょうか。
長谷部:最初に念を押しておきたいことが一つあります。EGAKUプログラムは仕事の場での発想力アップや生産性の向上といったことだけを目指したものではありません。
EGAKUプログラムは元々、アーティストの谷澤邦彦が子供でも学生でも、あるいは普段絵を描かない大人でも、自由に絵を描いてほしいという思いから考案したものです。
谷澤は以前、美大で学生を指導していたのですが、美大生でも「絵を描くのが怖い」という人がいることに疑問を持っていました。
絵は太古の昔から人間によって描かれていて、小さい子供は描けと言われなくても描いています。絵を描くことは人の自発的な行動の一つです。
それなのに美大生でさえ描くことに恐怖心を持ってしまっている。子供でも年齢が上がると描けなくなったりします。大人については言うまでもないでしょう。
義務教育の後、一切絵を描いていない方は多いでしょうね。
長谷部:谷澤は誰にでも絵を描いてほしいと考え、EGAKUプログラムをつくったのです。美大での指導ノウハウが入っていますから美術を専門的に学んでいる方にも適用できる内容です。
というわけでEGAKUプログラムの根本には、谷澤が昔から抱いていた「人はなぜ絵を描くのか」という問いがあります。人にとってのアートの意義や可能性を追求したい、という思いがあったのです。
EGAKUプログラムの様子。奥で説明しているのが考案者の谷澤邦彦氏。ホワイトシップのファウンダー&ディレクターでもある。
実際にはどういうことをするのですか。
長谷部:まず鑑賞です。受講者がグループになって谷澤の絵画作品を鑑賞します。そして作品を見て感じたことを言葉で表現し、発表してもらいます。
互いの発表を聞いていると、自分の感じ方を自覚したり、他者との違いを認識したりすることになります。自分や他者と対話をしていくことで自分の在り方を見つめられます。
自分が陥りがちな思考に気がついて、それにこだわらず自分の感性をもっと豊かにしていくことが可能になっていくのです。
イノベーションのカギは「違いを認める」こと
仕事モードのままだと「その絵に価値があるかないか」といった判断になってしまいそうですが。
長谷部:EGAKUプログラムで重要視しているのは、「自分なりの感じ方を表現してもらう」ことです。絵画に対する知識や批評的な観点は必要ありませんし、上手下手は関係ない。こう申し上げた上で、自分なりにどう感じたかを語っていただきます。
とはいえ、どう表現すればいいか分からないという方もいらっしゃいますので、こちらから切り口をナビゲートして、自由に言葉にするきっかけとしていただいています。例えば次のような呼びかけをします。
「この絵で動いているところがあるとしたら」「音が聞こえるとしたら」「香りがするとしたら」「味がするとしたら」「この絵の中に入ったらどんな感覚がするか」「この絵が大きな世界の一部を切り取ったものだとしたら、どんな世界の一部なのか」。
そうすることで発言することに躊躇(ちゅうちょ)していた雰囲気の参加者も、スムーズに、しかもユニークなコメントを出せるようになります。
絵に対する感じ方は一人ひとりどれもが正しくて、唯一無二の正解などありません。自分なりの素直な感じ方を表現したり、他者の表現に対して批判せず耳を傾けたりする。ここが大事な点です。
EGAKUプログラムの際、私たちは個々に持っている感じ方や思考のパターンに常に左右されるということと、一枚の絵でも多様な見方ができるということを、日常におけるコミュニケーションや仕事のやり方といった話題につなげてお話ししています。
「違いを認めるというのはイノベーションを起こす際の重要なキーワードだ」。谷澤はこう発言しています。産業界でイノベーションの重要性が指摘されています。自分の素直な感じ方を認め、他者との違いを認めることが第一歩ではないでしょうか。
続いて非言語表現である絵の創作に入ります。実際に画材を手に取って絵を描きます。描く時間は40分~1時間程度です。皆さん30分くらい書き続けると集中力が発揮された状態になります。
いきなり描いて下さい、と言ってもなかなか難しいので、ガイドに沿って描いていただきます。例えば「あなたを突き動かしているもの」といったテーマをお出しします。そのテーマについて考え、ご自身の言葉で表現し、それから所定のワークシートに記入した後、パステルを使って色や形を表現していきます。
絵を描くという非言語表現をするためにまず言語表現を使うのですね。
長谷部:EGAKUプログラムは「人はまず言語によって自分の表現の仕方を認知する」という考え方にのっとっています。
テーマが「あなたを突き動かしているもの」だった場合、「あなたを突き動かしているものは何か」「その根底にあるものは何か」といった問いに対する答えをワークシートに言葉で書いていただきます。こうすることで、参加者は言葉を通じてテーマにより深く向き合えます。
過去の参加者の例で言いますと、「仲間への思い」「将来への不安」「家族」「好奇心」「達成感を得たい」「支えてくれた両親」「お客様の笑顔」など、様々な言葉が出てきます。
次に、ご自身で見いだしたそれらの言葉と、EGAKUプログラムで用意した色のチャートを見比べながら、その言葉を色で置き換えるとどうなるかをイメージしていただきます。こうした言語表現と非言語表現を繰り返していくことで、ご自身の世界観を絵画作品に変換しやすくしているわけです。
私たちの経験上、言語表現と非言語表現を繰り返すと参加者の言語表現が豊かになっていく傾向が見られます。ビジネスパーソンの中には仕事上仕方がないことかもしれませんが、ロジカルな言語表現以外は受け付けない傾向の方もいらっしゃいます。そうした方でもEGAKUプログラムを繰り返し受けるとコミュニケーションに使う言語表現の幅を広げていかれるように感じています。
余談ですが、子供向けのワークショップでは、非言語表現の比重を上げ、言語化の比重を下げています。小学生の低学年くらいの年代ですと言語能力がまだ育っていないためです。
自由に絵を描いてもらって、最後にその絵に表題をつけたり、自分の作品から感じることを言葉にしたりする、といったやり方をとっています。低学年の子供たちが絵に表題をつけるときに苦労する姿はとても愛らしく、その一方で、とても詩的な表題が続出するので面白いです。
パステルを使って作品を描く。砕くと粉状になるパステルを採用、指で紙の上の粉を伸ばして表現することもできる。
誰でも「自分が表現したい絵」を持っている
希望して受講した人は別にして、研修プログラムの一環で受けに来た人に「やらされ感」が出たりしませんか。
長谷部:最初のうち、「えーっ」と抵抗感を露わにする方もおられます。でも、このプログラムに参加して描けなかった人は一人もいません。
EGAKUプログラムに鑑賞と創作があると申し上げましたが、創作、つまり絵を描くパートの中にも「自分の絵を見る」という鑑賞の要素が入っています。自分の絵を鑑賞しながら、より自分が納得いく表現を追求することになります。
受講者の様子を拝見していると「会社の研修だから仕方なく参加した」といった雰囲気だった人でも「本当はこう描きたいのにそうなっていない、どうしたらいいか」と自分の絵に対して不満な点を見つけ、それを改善しようと試行錯誤を始めます。
描くことに消極的に見えた人でも「自分が創作したい絵」のイメージを実際には持っていたわけです。非常に深いことです。絵を描くという行為は人間の根源的な活動なのだと改めて感じます。
最終的に皆さん絵を描き、「楽しかった」「びっくりした」という感想を言って帰られます。リピーターの方も多く、残業続きでお忙しい中でも「リフレッシュできる」ということで、仕事の合間に来られる方がいらっしゃいます。
「びっくりした」とはどういう意味ですか。
長谷部:ご自身の中で思考のフレームが変わる、あるいは緩くなったり、ずれたりする、ということが起きるのです。フレームとは人が物事を認知し、思考するとき枠を指します。一定のフレームがあって、人それぞれの思考のパターンをつくり出していると考えられています。
EGAKUプログラムを受講すると、そのフレームが変わる。この変化は受講者ご自身にとってとても大きなインパクトになります。
なぜフレームが変わるのですか。
長谷部:絵の鑑賞を通じてご自身の感じ方や他者の感じ方を認識する。ここが大事とお話しました。それはフレームが変わるきっかけの一つです。
非言語表現である絵を描く体験によってもフレームは変わります。テーマについてご自身なりに向き合い、それを絵として置き換える作業は普段と違う頭と体を使うからです。特に「絵を描くのは苦手」「私は描けない」という先入観をお持ちの方でしたらなおさら、絵を描く実体験を通じて大きくフレームが変わるはずです。
多くのビジネスパーソンは言語による表現に慣れていますが、非言語で表現する機会は仕事上、あまりありません。EGAKUプログラムで絵の鑑賞と創作をするだけでも、受講者ご自身が十分に自覚できるフレームの変化が起きるのです。
フレームが変化せずとも、ご自身が持っているフレームを自覚するだけでもEGAKUプログラムの効果はあったといっていいでしょう。実際、ご自身のフレームを確認して、「これでよいのだ」と自信を取り戻して元気になる参加者もいらっしゃいます。
ある参加者の女性が、こんな感想を述べてくださいました。「怒り」というテーマを設定して絵を描き始めた時、「怒りの感情を自覚して表現することは、とても幼稚なことだと思っている」ご自身の考え方に気付いたそうです。
描いているうちに「怒りは大切なものを守るために生ずるものだ」という発想が浮かび上がり、さらに「それなら怒りを表現している人は何か大切なものを守ろうとしているのではないか」「そうであれば怒りは相手を知るためのきっかけとなるし、自分のことをより深く知ることになる」という気付きが起きたと仰っていました。
この方はそれ以来、怒りの感情に対して苦手意識がなくなり、結果として部下のマネジメントが楽になったそうです。自分の怒りを押さえつけず適切に表現できるようになり、また相手の怒りの表現に対して怖がらずに向き合えるようになったともコメントしています。
絵を描くことによって起きたフレームの変化がマネジメントにおける気付きをもたらしたのですね。
長谷部:こういう例もあります。ある大手企業でEGAKUプログラムを全社に展開するプロジェクトがありました。いわゆるパワハラととられかねない行動が目立つ上司の方がいらっしゃって、EGAKUプログラム受講経験のある部下の方々があの手この手を使ってその上司にもEGAKUプログラムを受けさせたのです。
上司の方がEGAKUプログラムを受けた後、非常に印象深い感想を口にされました。次のような内容です。
「私は絵が苦手で本当に参加したくないと思っていた。だがプログラムで自分の表現を一度も否定されないということを経験し、なんて心地よいことなのかと感じ入った。私は仕事で部下に頭ごなしに言ってしまうことが多かったが、これからは他者を否定せず受け入れることを心掛けたい」
部下の方々は驚きとともに「本当かな」という気持ちを持ったそうですが、後日談として「受講以来、確実に話しやすくなった」という感想を複数の部下の方から伺っています。
ホワイトシップの長谷部貴美社長。同社でアートプロデューサーを務める。
想像もしていなかった自分が出てくる
頭の中に浮かんできた言葉を手で書く「ジャーナリング」や「ライティングセラピー」が注目されています。EGAKUプログラムは手を使って絵を描きます。手という身体を使う効果をどう見ていますか。
長谷部:私たちは手を使うこと、あるいは絵を描くことについて科学的な研究をしているわけではありませんが、受講者の様子を見ると、手を使って絵を描くという行為は集中した状態を誘発します。その人の心に強く訴えかける何かがあるのだと確信しています。
絵を描いていると、絵を描く前までの自分が想像もしていなかった自分が出てくる、ということがしばしば起きます。人はその状態を求めます。谷澤が問う「なぜ人は絵を描くのか」への答えの一つなのかもしれません。
私たちはEGAKUプログラムを「創造性開発」ではなく、「創造性回復」のためのものだと説明しています。人はもともと創造性を持っていて、それを引き出す筋肉を鍛える、という感じです。これまでの受講者が描いた1万点以上の作品を見ていると、創造性を開発する必要などない、とつくづく思います。
心の豊かさや社会の持続性を重視する時代だと言われています。そのような時代にあって一人ひとりのビジネスパーソンが既存の思考のフレームを超えることが何よりも必要ではないでしょうか。
絵を描くことで一人ひとりの創造性を回復する。それによって21世紀に合った力が育まれる。こう考えています。
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