さっぽろ羊ヶ丘展望台のクラーク博士像(写真:PIXTA)
さっぽろ羊ヶ丘展望台のクラーク博士像(写真:PIXTA)

 ウィリアム・スミス・クラーク博士の「少年よ、大志を抱け」(Boys be ambitious)は、若者を励ますのに最もふさわしい言葉とされてきたが、ambitious をなぜ「大志」と訳したのかには疑問が残る。ここはあえて、素直に「野心」と置き変えてみたい。「若者よ、野心を抱け」となると、その印象は一変する。「大志」ではなく「野心」こそ新社会人に贈りたい言葉である。

 もちろん「大志」がふさわしいという考え方はあるだろう。クラーク博士は「少年よ、大志を抱け」に続けて「しかし、金銭のため、利己心のため、名声のためではなく、人間としてあるべきすべてを求める大志を抱け」と語りかけたという説もある。札幌農学校の学生のなかには、クラーク博士の精神を受け継いだキリスト教思想家の内村鑑三や「武士道」の新渡戸稲造ら、それこそ「大志」にふさわしい大人物がいる。

 しかし、この「Boys be ambitious」という言葉は札幌農学校の学生たちに馬上から投げかけた「別れの言葉」だったという。別れの言葉のあとに、長々とした説教が続いていたとは考えにくい。せいぜい「Good luck」に近いものだったのかもしれない。くだけていえば、「ひとつ、やってみろ」とか「いっちょう、やったれ」くらいの励ましの言葉だったのではないか。

 それを「大志」と重くとらえるか、素直に「野心」ととるかで、大きな開きが出てくる。「大志」にはどうしても、自分を捨て国家に奉仕する国家主義の匂いがある。戦前の日本が国家主義に走ったのは、若者が「大志」の呪縛から逃れられなかったことも背景に潜んでいるだろう。単純に「野心」ととっていたら、日本人の精神はもっと解放されていたかもしれない。

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