ゼンカイさんの自宅がある河南省の村。家族が亡くなると亡骸は家の畑に葬る(2015年、撮影=山田泰司)

 これが私にとっては本書中で最も印象的だった。現金収入を求めて、何の当てもなく大都会に出てきて、とりあえず駅前広場に野宿する人々の姿までなら私にも想像ができる。けれども、彼らが申し合わせたように一張羅のスーツを着込んでいるという現実は想像を絶しており、その姿のまま工事現場で働いているという現実はさらに想像を絶している。なぜ労働用の「汚れてもいい服」を用意してこなかったのかという疑問が浮かんだこと自体、私がいかに中国の農民たちの現実を知らないのかを暴露している(「パンがなければお菓子を食べればいいのに」と言ったというマリー・アントワネットの無知を私は笑うことができない)。スーツを着たホームレス労働者という矛盾した外見は「田舎から都会に出てきた彼らの張り詰めた気持ち」と「そのスーツしか着るものがほかに無い」という絶望的な貧しさを同時に表現していたのである。

 こういう場面はその場にいた者しか記憶することもないし、回想することもできない。その点では、これは「農民工とは何か」についてのまことに貴重な証言と言うべきだろう。著者はそのときの農民工の姿を通じて、中国人とは何かについての一つの深い理解を得る。

「スーツ、無表情、無言、地べたに座り込み寝転んでいる姿のすべてから彼らは、生きるためにならこだわりなく何でもする、言い換えれば、ここにこうしているしかオレたちに生きる術はないんだという気を発していた」(252ページ)。

 著者はそのような「気を発する」人々を上海はじめ中国各地で取材する。けれども、これを「取材」というふうに読んでいいのかどうか、実は私にもよくわからない。一つにはそれが同一人物について長期にわたるものであるため(長いものは10年を超える)。もう一つは、しばしばインタビュイーとの関係が取材者と取材対象という関係を超えて個人的な交際になっているためである。これはどちらも現在の日本のジャーナリズムではほとんど見ることのできない取材方法である。読者によっては、対象との距離感が近すぎる、客観性に欠けると言う人がいるかもしれない。

 けれども、私はこの例外的に「間合いの近い」取材方法を成り立たせるために著者が費やした時間と労力を多とする。長い時間をかけて、息づかいが感じられるほど取材対象の間近に迫るというスタイルは現代ジャーナリズムが失いかけているものである。このような泥臭い、けれども手堅いスタイルはジャーナリズムが決して手離してはならないものだと私は思う。

 著者が現代中国の市民生活についてさらに広い範囲で取材を続けて、中国の実相を明らかにしてくれることを期待している。

内田 樹(うちだ・たつる)
1950年東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。神戸女学院大学文学部助教授・教授を経て2011年に退職。現在、神戸女学院大学名誉教授。京都精華大学客員教授。昭和大学理事。神戸市内で武道と哲学のための私塾「凱風館」を主宰。合気道七段。執筆活動全般について第三回伊丹十三賞を受賞。 主な著書に『ローカリズム宣言』(デコ)、 『街場の天皇論』(東洋経済新報社)、 『アジア辺境論 これが日本の生きる道』(集英社)、 『増補版 街場の中国論』(ミシマ社)など。(写真=大亀京助)