日本国憲法が揺らいでいる。憲法解釈を大きく変更した安保法が国会で成立し、自民党はさらに改憲を目指す。その根底にあるのが「押しつけ憲法論」だ。だが日本国憲法がこれまで70年間、この国の屋台骨として国民生活を営々と守り続けてきたのも事実である。この連載では戦後70年、日本国憲法が果たしてきた役割、その価値を改めて考えたい。

 第1回は日本国憲法がひとりの女性を救った物語である。

47年前に事件があった地域。現在は建物も建て替えられ、当時の雰囲気を伝えるものは一切無い
47年前に事件があった地域。現在は建物も建て替えられ、当時の雰囲気を伝えるものは一切無い

 栃木県某市。その地域のことをどう表現すればいいのか、戸惑う。ちょっとした幹線道路と小さな道路に区切られた一角に団地が建ち並ぶ。辺りには民家と田んぼしかない。表現の手掛かりになるような特徴がなく、ぬるっと手から滑り落ちそうなところ。そんな地域が、日本憲法史上に特筆される裁判の舞台となった。

 裁判の名前を「尊属殺重罰事件」という。日本で初めて最高裁判所が法令違憲の判決を下した事件といわれている。

 事件は47年前の1968(昭和43)年10月5日に起きた。父親Xさんと同居していた娘のA(当時29歳)がXさんのクビを絞めて殺した。「尊属殺人」とは親を殺害することである。
 事件発生から2日後の10月7日、下野新聞朝刊が事件の一報を伝えた。

《娘が父親を絞め殺す》

 とヨコ一段の大きな見だしで、さらにタテに

《熟睡中にヒモで》《娘の恋愛からけんか》

 と並ぶ。記事本文は

《五日夜十時半ごろ、○○市○、植木職人Xさん(五三)の二女Aが近所の○さん方に「とうちゃんの首を絞めて殺してしまった」とかけこんできた》

《Aは非常に興奮して、ただ泣きじゃくるばかりで一睡もせずに一夜を明かし、六日の朝食も食べないほどだったが、夕刻になって「昨夜も父親と口論し、夢中で殺してしまった」と自供した》

 口論の原因は、Aが働きに出た印刷会社で恋人ができたことだった。

《これを知ったXさんはきちがいのようにねたみ、暴行を働いたため、Aは、二十日前から勤め先を休んでいた》

 朝日新聞の栃木県版も同様の内容を記事にしていた。
 これだけ読めば親子喧嘩のなれの果て、と思うだろう。だが事件には新聞記事では公にされていない事実があった。

 事件から数日後、宇都宮市内で事務所を構える大貫大八弁護士(故人)のところにひとりの依頼人が現れた。殺されたXさんの別居中の妻Yさんだった。依頼内容は娘のAの弁護だった。そこで語られたのは、おどろおどろしい事件の背景だった。

 Aは14歳のころに実父のXさんから犯され、それからずっと近親相姦の関係を強要されていたのだ。しかも父親との子どもを5人も出産し、2人は死亡したものの、3人の子どもを育てていた。やがてAさんが外に働きに出て、恋仲の男性ができ、結婚の約束をする。それを知ったXさんが激怒し、あの夜の犯行につながっていく。

 大八弁護士の息子でのちに訴訟を引き継ぐ大貫正一弁護士は、Yさんが依頼にきたときの様子をこう語る。
 「お母さんは自分の恥を忍んでよく相談にこられたと思いますよ。話を聞いているうちにお母さんも、オヤジも私も涙を流してね」
 ただの刑事事件にはならなかった。なぜならAは刑法199条だけでなく同200条でも起訴されたからである。

 普通の殺人罪は199条で

《人を殺した者は、死刑又は無期若しくは3年以上(当時。現在は5年)の懲役に処する。》

 と規定されているが、尊属殺はそれとは別に200条で次のように規定されていた(現在はこの規定は削除。詳細は後述)。

《自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス》

 最低刑が無期懲役なので、Aの境遇その他を情状酌量して減軽したとしても、刑法の規定から執行猶予がない実刑判決を免れない。

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