「最初に改正ありきの議論はおかしい」

 前述したように連邦最高裁判事は終身制で、いったん任命されると死ぬか自ら退くまでその職に止まる。日本のように国民が最高裁判事を免職することができる国民審査の機会もない。

 だが連邦最高裁判事が独善に陥らないような制度が担保されている。そのひとつが「アミカス・キュリエ(amicus curiae、ラテン語で「法廷の友」)」である。

 アメリカでは裁判の原告・被告という当事者以外に、所定の条件を満たせば第三者がその裁判に自らの意見書(アミカス・ブリーフ)を送ることができる。たとえば1989年の中絶に関する裁判では400にのぼる個人・団体が合計78の書面を提出した。この制度はただあるだけでなく、実際にアミカス・ブリーフが判決に影響を与えていることが実証されているという。日本ではこのような制度はない。

 憲法の条文の数が少なく改正も難しいアメリカは、裁判所の解釈によって、「憲法秩序の変動」つまり実質的な憲法改正を行ってきた。それを支えるのは国民の司法権への信頼の伝統と「アミカス・キュリエ」のような制度である。日本の司法権はアメリカと似た権限を持ちながらそのような伝統と制度を欠き、日本の最高裁は「司法消極主義」の立場を維持している。

 では日本の憲法秩序の変動はなにによって行われているのかというと、国会の立法である。国会法、内閣法、公職選挙法など憲法の規定を充足する憲法付属法をいじることで、憲法秩序を変えてきた。たとえば有権者の年齢を18歳に引き下げるなどが最近の例だ。

 阪口教授は、「憲法改正を論じる前に、まずその改正で達しようとする目的が本当に憲法を変えないとできないのか、法律でできるのか考えることが必要です。最初に改正ありきの議論はおかしい」と指摘する。

 たとえば同性婚について、安倍首相は「憲法が予定していない」と発言している。これは日本国憲法第24条の「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立」という文言の「両性」を念頭に置いていると思われる。安倍首相の考え方でいくと同性婚は憲法改正が必要になる。

「ですが第24条の趣旨は、結婚が当事者の意思に基づかないとダメであるということで、同性婚を排除しているとまでは考えられません。法律で同性婚を認めても違憲とはいえないでしょう」

 天皇の生前退位についても、内閣の法律顧問である内閣法制局は恒常的な退位制度を作るには憲法改正が必要と考えている。

「これは憲法第1条後段の天皇は『日本国民の総意に基づく』という文言から、国民が退位を認めればいいが天皇自らの意思での退位は無理だと解釈しているのでしょう。しかし天皇も生身の人であり、表現の自由や婚姻の自由など多くの人権が制限された立場です。それを理論的に正当化するのは相当難しい。だったらせめて天皇を辞める権利ぐらいは認めるべきではないでしょうか。皇位の継承については憲法第2条が皇室典範に委ねているのですから、生前退位も皇室典範の改正で足りると考えられます」

 私自身は、たとえば参議院選挙のあり方について一票の価値を貫くのか、地域代表の性質を認めるのかは、憲法改正を含めた論議が必要だと思う。だが同性婚のように今現在進行中の人権侵害については、憲法改正によらない速やかな立法的解決をすべきではないかと考える。

 「とにかく憲法改正すべし」のごとき、なにに由来しているのかわからないある種の強迫観念から改正論議を解き放ち、なにを憲法典のテキストに書き込むのか、書かないのか、自由な議論がしたい。


【主な参考文献】
阪口正二郎「憲法に対する愛着と懐疑」(民主主義法学と研究者の使命-広渡清吾先生古稀記念論文集」所収、日本評論社、2015年)
岡山裕「憲法修正なき憲法の変化の政治的意義」(駒村啓吾・待鳥聡史編「『憲法改正』の比較政治学」所収、弘文堂、2016年)
川岸令和「立憲主義のディレンマ-アメリカ合衆国の場合」(同上)
鵜飼信成著・日弁連法務研究財団編「憲法と裁判官 自由の証人たち」(日本評論社、2016年)
見平典「憲法学と司法政治学の対話」( 宍戸常寿・曽我部真裕・山本龍彦編「憲法学のゆくえ」所収、日本評論社、2016年)
宍戸常寿「憲法運用と『この国のかたち』」(長谷部恭男編「『この国のかたち』を考える」所収、岩波書店、2014年)
阿川尚之「憲法改正とは何か アメリカ改憲史から考える」(新潮選書、2016年)
曽我部真裕・見平典編著「古典で読む憲法」(有斐閣、2016年)
高橋和之編「新版 世界憲法集」(岩波文庫)