「ハンセン病違憲国家賠償裁判」についてのシリーズ最終回をお送りする。
ハンセン病と診断され、療養所に事実上隔離された入所者らの訴えに応じる形で始まった尊厳回復の裁判は、原告の勝訴となった。
だが、あまりにも弱い立場に置かれ続けた彼らの戦いを考えると、人権の尊重を謳うこの国の憲法の規定と実際のありかたについて、大きな疑問が生じてくる。
弱者に戦いを強いるこの現実は憲法のめざすところなのか。私たちは、本当の弱者の存在を見て見ぬ振りをしていないか。
憲法改正の議論が本格化するが、その重みも含めて、私たちは憲法が定めるところの意味を、今一度考えてみるべきではないか。

ハンセン病違憲国家賠償裁判は、一審の熊本地裁判決について国が控訴を断念し、原告団の勝訴が確定した。ハンセン病療養者たちの人権を侵害していた「らい予防法」を早くに廃止しなかった国の「不作為」が断罪されたのである。
人権侵害を省みなかったのは国だけか?
だが、「不作為」は国だけのものか、私たちは考えなければならない。
「この問題は国だけでなく、憲法学の不作為でもなかったのか」
憲法学界の重鎮、専修大学の棟居快行教授はそんな自問を重ねている。
熊本地裁判決後の判例評釈(判決文を理論的に分析した論文)で、棟居はこんなことから書き始めている。

《(前略)関係者の誰の目にも当該施策(神田注・「らい予防法」のこと)の不当性は明らかであったろう。にもかかわらず、なぜ形式的な法律論のみが跋扈する不毛な訴訟が、えんえんと継続せざるを得なかったのか、なぜ知恵と勇気のある裁判官に当たるという幸運の世話にならなければならないのか……。(中略)本判決が我々に投げかけた極めて大きな宿題である》
判例評釈という論文に、このような感情的な文章は珍しい。
だがたしかに、この裁判は一審の裁判官や控訴断念した政治家の決断という「運」に恵まれたところがあった(もちろんそれは原告団と弁護士たちの努力がたぐりよせたものであることは言うまでも無いが)。
そもそも裁判自体、ハンセン病療養施設に暮らす入所者から九州弁護士連合会への一通の手紙から始まっている。
はなはだしい人権侵害の法律に、憲法学はもっと自覚的に取り組むべきではなかったか。憲法学のそのような不作為の態度について棟居は2つの理由を挙げる。
「まず憲法学がたとえば9条の論点のように、天下国家を論ずる発想が強すぎたことです。個人の個別的な不幸な問題は民法や刑法などで解決すべきであり、憲法学は個人対国家など普遍的なテーマを取り扱うと考えてきました。そうすると足元の弱者が見えてこないんですよ」
「二つ目は憲法学が個人対国家の関係を考えたとき、その『個人』とは個別の事情を抱えた人々という意味ではなく、国民主権を担う国民をばらして『個人』としていることです。ここでいう個人とは、自分のことは自分で決められる自己決定権を持つ、『強い個人』です。いわば民主主義の兵士みたいなものです。その兵士の人権さえ守っていれば民主主義がちゃんと運営されると考える。ところが今回の裁判の原告の方々のように、強制隔離で自己決定権を奪われている人は、憲法学は見えていなかった。兵士じゃないから」
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