JR関西本線今宮の駅のすぐ近く、エレベーターのない雑居ビルの3階に「西成法律事務所」がある。ここから5分も歩けば、通称「釜ヶ崎」と呼ばれる労働者の街である。事務所には玄関がなく、扉を開けて脱いだ靴を持って中に上がらなければならない。窓が壁一面にあって、失礼ながら建物の佇まいからは想像出来ないほど事務所内は明るく開放的だ。

1960年山梨県生まれ、東北大学助教授(現在の准教授)を経て弁護士に転身。1998年に大阪市西成区に事務所を開設する。10数件の憲法訴訟に関わり、論文も執筆。弁護士であり市井の憲法学者でもある。日本公法学会所属。
遠藤比呂通がこの街に事務所を開いて18年になる。労働者の法律相談にのるなど弁護士業をしつつ、憲法についての論文を執筆する市井の憲法学者でもある。
36歳まで東北大学法学部で、憲法学の助教授(現在の准教授)をしていた。主に研究していたのは憲法訴訟論だ。東京大学法学部を卒業して、成績優秀者のみに与えられる「助手制度」を利用して大学院をスキップして、いきなり東大法学部の助手になった。いまだ日本憲法学の巨人にもたとえられる故・芦部信喜東大名誉教授に公私ともに可愛がられ、共著を計画していたこともある。助手時代の指導教官は「護憲派の泰斗」とも評される樋口陽一東京大学・東北大学名誉教授だ。
アカデミズムのど真ん中で将来を嘱望されていた新進気鋭の憲法学者が、なぜいま釜ヶ崎で弁護士をしているのか。「遠藤憲法学」はそこから始まる。
「召命」を受けて、大学に辞表を提出
遠藤自身は「自分の来歴からまっすぐここに来るというわけではないんです。自分でもうまく説明できない」と苦笑いする。
大学を辞める直接のきっかけは、助教授時代にケンブリッジ大学に国費留学したときに、クリスチャンとしての「召命」(神によって召されること)を受けたことだ。子どものころはキリスト教系の幼稚園に通い、東北大学でも学生たちと神学書の輪読会を開いていたほどキリスト教に関心があった。「召命」を受けて、牧師か宣教師になろうと思い、そのまま大学に辞表を提出した。
ここがまず突飛な行動なのだが、遠藤は「これはもう、信仰の問題というしかない」という。研究者としての生活よりも、信仰心を優先させた、ということなのだろうか。とはいっても、「宣教師」とは我々がすぐ想像するフランシスコ・ザビエルのようなものではない、と遠藤は説明する。
「イギリスだとお医者さんが仕事をいったん休んで、宣教師になって世界の僻地医療に向かうことが普通にあるんです。布教活動というより、人道的なボランティア活動なんですね。私もそれができないかと考えました」
だが辞表は受理されなかった。当時の法学部長から大学院生の論文指導を続けること、後任の憲法の教員を見つけてくること、などを条件にされた。いずれ時間が経てば宣教師への熱も冷めるだろう、という学部長の目論見が当たり、辞める決意が薄れていく。
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