「施し」ではなく国の「積極的な責務」

 1947(昭和22)年5月3日に日本国憲法が施行されて、最初に憲法25条の法的性格を分析したのは民法学者の我妻栄である。我妻は同年に出版された「新憲法の研究」という論文集のなかで、25条を「生存権的基本権」と呼び、伝統的な「自由権的基本権」と区別して、

《現実の社会において、かかる利益を享受し得ない者に対して、国家が現実にこれを与えることに努力すべき積極的な責務を負託したのだと解さねばならない》

とした。従来の生活保護制度が救貧政策による国家の「施し」というニュアンスであったものが、憲法25条によって一歩前進した。

 だが、最高裁判所は生存権について行政に広い裁量権を認めている。なぜそうなるのか、生存権の法的性格をかいつまんで説明する。

 もともと人権は我妻栄が指摘するように「自由権的基本権」から始まる。これはたとえば憲法21条の「表現の自由」のように、「○○の自由」と付くものだ。個人の自由を最大限に尊重し、国家からの干渉を制限するために存在する人権である。

 しかし憲法25条や26条の「教育を受ける権利」などは、国家の積極的な関与を求める権利である。これらを自由権に対比して社会権と呼ぶ。社会権は憲法で定められた人権を活かすために、一般の法律の存在を前提とする。25条の場合、「健康で文化的な最低限度の生活」の具体的な中身は、法律に委ねられる。

「600円では暮らせない」として起こされた朝日訴訟

 その中身が最初に問われたのが、憲法施行から10年たった1957(昭和32)年に始まった朝日訴訟である。

 国立岡山療養所に入所していた結核患者の朝日茂さんは、生活保護法に基づき、毎月600円の生活扶助と全額給付の医療扶助を受けていた。ある日、それまで行方知れずだった兄が見つかり、兄が苦しい家計の中から朝日さんに毎月1500円を送付してくれることが決まった。

 ところが地元の津山市社会福祉事務所は朝日さんへの生活扶助を廃止した上で、仕送り金1500円から生活費600円を除いた900円を朝日さんの診療に要する医療費に充当し、不足分について医療扶助を行う決定をくだした。つまり、朝日さんのお兄さんから仕送りがあっても、国庫の負担が減ることだけに利用され、朝日さん自身の生活は全く変わらないことになったのである。

 やっと苦しい療養生活から抜け出せると喜んでいた朝日さんは、手元にくるお金が以前と変わらない金額であることに落胆し、「600円では憲法に掲げる健康で文化的な最低限度の生活を満たしていない」と、処分の取り消しを求めて厚生大臣を相手に行政訴訟を起こした。

  憲法25条を巡る初めての裁判は全国から大きな注目を集めた。ポイントは、なにが「健康的で文化的な最低限の生活」なのか、裁判所が判断出来るのか、ということだ。そのころの通説的理解では、25条は政府への「努力義務」を課しただけであり、生活保護の具体的な内容(たとえば金額など)は、専門的知見を持つ所轄官庁の裁量の範囲内とする、というものだった。たしかに「健康で文化的」という言葉は抽象的である。また予算の限度も指摘されていた。

 だが、裁判を担当した東京地裁の浅沼武裁判長は裁判所が判断をすることに踏み切った。そのころの思いを左陪席の新任判事として審議に加わった小中信幸氏は後にこう説明している。

 「(25条の通説的解釈について)このような解釈は、憲法25条が保障する生存権的基本的人権の内容を実質空洞化するものであること、憲法25条の理念は、生活保護法の規定を通じて国民に対し、「人間に値する生存」あるいは「人間として最低限度の生活」を権利として保障したものであって、そうである以上、国はこの保障を実質化、具体化する義務を負うという考えに達した」(法学セミナー2011年2月)