思い出のホテル・メトロポール・モスクワ
モスクワ・レニングラード駅に到着したのは23時30分。そこから、夜遅く地下鉄に乗ってホテルに帰るのは旅行前からかなりの不安があったが、まったくの杞憂だった。酔っぱらいも挙動不審者も見当たらず、パリやローマの地下鉄よりもずっと安全な雰囲気である。0時を過ぎて、何事もなくホテルに帰り着くことができた。
ところでモスクワのホテル事情だが、ここは大都会だからか観光地だからか、シベリアの町とは段違いにホテルの値段が高かった。手頃なホテルは中心部から遠く、中心部の大きなホテルはルーブル安にもかかわらず軒並み1泊3万円以上というありさま。なかには5万円を超えるホテルも何軒かある。3泊する値段でシベリア鉄道を1等車で往復できてしまう。
そんななかで、ようやく見つけたのが、前にも書いたように赤の広場から徒歩で10分くらい、ツインで1泊約1万2000円のホテルだった。

ところで、モスクワでソ連時代から続く由緒あるホテルというと、赤の広場横にあるホテル・メトロポールだろう。今回は1泊3万円ほどもするので泊まるのを断念したが、実は1985年の旅では、ソ連の旅行社インツーリストによって無理やりここに2泊させられている。確か、当時で1泊2万円ほどしたと思う。外国人には高くて設備の整ったホテルしかあてがわれなかったのでしかたない。
それにしても、貧乏旅行をしていた当時にメトロポールに泊まり、「大人のシベリア鉄道横断」を標榜した今回は手が出なかったというのは皮肉というしかない。
それに先立つ1981年の旅では、モスクワに1泊しかしなかったのだが、あてがわれたのが郊外も郊外、旅行前に「一般の外国人はこれ以上郊外に行かないように」と注意されていた外郭環状道路近くのホテルであった。都心から20km以上離れていただろうか、不便このうえない立地である。前年のモスクワオリンピックの選手村としてつくられたと聞いた。
このときは、ホテル従業員用のバスに便乗して都心に観光に出たはいいが、ホテル・メトロポール前から出発すると聞いていた午後の帰りのバスが、どうしても見つからない。しかたなくタクシーに乗ろうとしたのだが、運転手には英語はもちろん、ホテルの名前さえも通じない。その日の夕方にはワルシャワに向かう列車に乗らなくてはならず、ホテルに戻れなくなったら列車に乗れないのだ。

心細さを通り越して、「どうすりゃあいいんだ!」と進退窮まってようやく思いついたのが、ホテル・メトロポールのフロントに泣きつく手であった。
本当に届いたスーツケースと3足の靴下
コンシェルジュのインテリおばちゃんは有能な人であった。英語も堪能な彼女は、事情を理解すると、私が泊まっていたホテルに連絡して、荷物をタクシーで運んでくれるよう手配してくれた。
「安心しなさい。そのタクシーに乗ってそのまま駅に行きなさい」
私はありったけの感謝のことばを、ロシア語と英語と日本語で口にしたのは言うまでもない。やってきたタクシーのトランクには、私のスーツケースが積み込まれていた。だが、その上に靴下が3足載せられていたのを見たときには、顔から火が出る思いであった。
スーツケースに鍵をかけて外出したのはいいが、乾ききっていない靴下を、そのスーツケースに乗せておいたのだ。
ホテル・メトロポールと聞くと思い出す、ささやかな恥ずかしい思い出である。それにしても、乾かしていたのが靴下でまだよかった。

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