ノヴォシビルスクからモスクワまで、残るは約3300km。2015年9月22日の夕方、ホームで私たちを待っていたのは、トムスク発モスクワ行き37列車である。前回よりまた列車番号が減ったので、上級の列車であることが期待できる。この列車が、シベリア鉄道全体の3分の1強の距離を、丸2日、49時間30分かけて走破する。
旅を計画している段階では、もうこの時点で疲労困憊しているかと思い、奮発して1等車を予約しておいた。2等車が1人約2万5000円のところ、1等車は約4万円近くかかったのだが、コンパートメントはきれいで寝心地もよく、それだけの価値はあった。しかも、初日の夕食も付いていたので、まずまずお得な感じである。
1等車の車内。ウラジオストク~ハバロフスクで乗ったものほど豪華ではないが、こちらのほうが寝心地はよかった
1等車のコンパートメントにはシャープ製の液晶テレビがあった。結局見なかったが……。そして、やはり室内にコンセントがあるのは便利
年齢不詳でマイペースな車掌さん
今回の1等車の車掌さんは中年の女性だった。私は「40代後半くらいかな」と思ったのだが、妻は「いや、少なくとも50。定年間近かもよ」と言う。ちょっと年齢不詳である。
この女性のキャラクターは、私がこれまで出会ったどのロシア人とも違っていた。一般的なロシア人というと、物静かで内向的、えてして無愛想だけど、心の底は暖かいというイメージが少なくとも私にはあった。
たとえば、バスや路面電車に乗って切符を買うと、車掌さんは無表情で切符を切るだけなのだが、目的地に着くまでそれとなく気にしていてくれて、直前になると「次だよ!」と親切に教えてくれる……そんなイメージである。
ところが、この車掌さんはまったく違っていた。とにかく元気いっぱいでサービス精神旺盛、表情も豊かな人だった。
彼女は列車が発車すると、しばらくして私たちのコンパートメントにやってきて、「ロシア語はわかる?」とロシア語で尋ねる。このフレーズは、34年前の出発間際に3カ月間習ったロシア語講座で覚えたままだったので、私はロシア語が理解できたうれしさをかみ殺しつつ、いかにも残念そうな顔をして「ほとんど分からない」とロシア語で答えた。
だったら、それでおしまいにするか、英語で話を続けるのかと思っていたら、勢いよくロシア語が口から出てきた。どうやら、湯沸器やトイレの使い方、車掌室のある場所を説明してくれているようである。この説明は、新しい乗客が来たらお決まりの「儀礼」なのだが、それならばロシア語が分かるかどうか聞かなくてもよさそうなものなのに……。一事が万事こんな調子で、常にマイペースな人であった
「お土産買え買え」攻勢の第一波
一通り説明が終わると、「ちょっとこっちへ来い」と身振りで示す。彼女は車掌室に入って何やら大きな人形を取り出したかと思うと、その顔の部分を自分の頬にくっつけて私たちに見せた。それは、シベリア鉄道土産のぬいぐるみだった。
擬人化されたクマが車掌さんの格好をしているぬいぐるみなのだが、愛嬌のある顔がかなりその車掌さんに似ている。本人もそれを意識してのパフォーマンスなんだろう。
車掌室前に貼りだされていたお土産品一覧。右端にそのぬいぐるみがある
「あれは、ぬいぐるみを買ってくれっていうことよ」
暖色系でまとめられた1等車の通路は、とてもきれいで清潔
妻はすぐ彼女の意図を見抜いたのだが、けっしてその行動は嫌味ではなかった。むしろ、意図がはっきりしていて気持ちがいい。開けっ広げで憎めない性格は、どこか私の生まれ育った東京下町のお姉さん方に共通するものを感じた。そういえば、上野の安い鮨屋でよく会うアネゴに、顔も体型も声も似ていたっけ。
それはともかく、「社会主義時代のソ連とはずいぶん変わったもんだなあ」とも思って、内心にやにやしながら見ていたのも正直なところである。そもそも、当時は気の利いたお土産もなかったし、あったとしても車掌さんが積極的に売り込むなんて想像もできなかった。どこに行っても、顧客サービスや商売っ気というものが感じられなかった時代である。
湯沸器はステンレス製。この湯沸器にかぶせられたタオルが、後に大きな「事件」を引き起こす
「ソ連崩壊から四半世紀。ここにも資本主義が根付いたか」
感慨深かった。もちろん、せっかくシベリア鉄道に乗ったのだから、何か記念のものを買って帰りたいという気持ちはあった。だが、彼女の持つぬいぐるみは、高さが50cmはあったろうか。残念だけど、さすがに大きすぎると私は身振りで示すしかなかった。
この後も何度か、彼女の「お土産買え買え」攻勢があるのだが、結局何を買ったのかは次回のお楽しみに。
100円ライターをプレゼントしたソ連時代
コンパートメントに戻った私は、34年前のシベリア鉄道を思い出していた。あのときの車掌さんは、ちょっと歯が欠けていて、ずいぶん年のいった女性に見えた。もっとも、もしかすると今の私より若かったかもしれない。
私は、当時のガイドブックで勧められているとおり、100円ライターを持参して彼女にプレゼントした。当時のソ連で喜ばれる土産物だと書かれていたからだ。「本当かな」と半信半疑だったが、実際にプレゼントしてみると、おばちゃん車掌は100円ライターにキスをしてオーバーなほど喜んでくれるのには驚いた。
実は、そのときの私は、旅行社の手違いがあったらしく、外国人専用車両ではなくてオーストリア人の若い男性とともにロシア人用車両に乗せられることになった。これがまたいい体験だった。
お母さんがいたずら坊主を叱る声が響きわたったり、ロシア人相手の物売りがやってきたりする。そのときに、アルミの食器で食べた50円ほどのボルシチは、これまでのボルシチの中でいまだに最高の味である。
通路に出ると、ロシア人のおじさん、おばさんたちが、あれこれと質問してくるので、トイレに行くときも会話帳を常に持参しなくてはならなかったほどだ。
ここまで来てもシベリアの開拓村のような風景が見られる
そのときの車掌さんにとって、私たちは息子くらいの年だったのか、ずいぶん可愛がってくれたっけ。彼女は毎朝、湯沸器で紅茶を入れて持ってきてくれた。毎回10円か20円くらいに当たるお金を払ったように記憶している。そう、ルーブルの下にコペイカという通貨単位があった時代だ。
「今、ロシア人の車掌さんに100円ライターなんか渡したら、バカにするなって張り倒されるだろうなあ」
私は妻に向かってしみじみと昔話をしたのであった。
食堂車の派手な色使いにびっくり
すっかり忘れていたのだが、この1等の乗車券には1回分の夕食が付いていた。食堂車の係員らしき女性がやってきて、メニューを選んでほしいようなことを言う。おそらく、飲み物とメイン料理の種類が選べるのだろう。
そこでテーブルに乗っているメニューらしきものを見たのだが、書かれている文字はすべてロシア語。しかも、かなり小さい文字だから、日本語であっても読めるかどうかという代物である。
どうしたものかと数秒間考えた末、「食堂車!」と言って食堂車の方向を指さした。食堂車に行けば、あれやこれやと通じないことばを通じさせながら選ぶこともできるだろう。また、狭いコンパートメントで食べるよりも、広々とした食堂車で食べたいという意思表示でもある。
これまで乗った列車とはまったく違う雰囲気の食堂車だった
食堂車まで足を運んでみて驚いた。207列車の簡素なビュッフェ車とも57列車のクラシックな雰囲気とも違い、やけに明るくて派手な内装なのである。よくよく見ると座席は安っぽいのだが、それでもこれまでの列車とはワンランク違うという雰囲気を醸しだしていた。
結局、食堂車好きの我々は、2泊3日の乗車で3回ほどお世話になるのだが、驚いたことがあと2つあった。1つはメニューに英語が併記してあったこと。イラスト入りのページまであった。もう1つは、黒ビールを注文したら、いかにも高級そうな瓶入りのビールが出てきたこと。よく見るとチェコ製であった。確かにうまかったが、値段も高かった。
こうして私たちが食堂車でのんびりとビールを飲んでいるうちに、初日の夜は更けていくのであった。
チュメニ駅で警察に油を絞られそうになる
事件は、翌日の早朝に起きた。モスクワ時間で6時42分、現地時間で8時42分に到着したのはチュメニ駅。ロシア最大の油田があることで知られる町である。ここで20分間停車するので、例によって私たちはホームに降りて写真を撮りまくっていた。
私は、駅舎とホームをぶらぶらして戻るつもりだったのだが、妻が長いホームの端まで歩いていって写真を撮っている。
「しかたがないなあ」と思ってそのあとを追い、私も駅構内の全体を見渡せる場所までやってきた。そこで写真を1枚撮ったのだが、嫌なことに気がついた。写真を撮った先には、軍用トラックを積んだ貨物列車が停車していたのである。
「こりゃ、まずい。ソ連時代ならば警察がすっ飛んでくるところだ」
そう思った直後のことである。駅舎がある隣のホームから40代くらいの小柄な男性が、私のほうに向かってきた。
これは妻が撮った軍用トラック満載の写真。私が撮った写真には1台しか写っていない(撮影:二村嘉美)
彼は、「ポリツィア」と言って、警察手帳らしきものを開いて見せてくれる。私服警官だった。
「こりゃ、本当に困ったぞ! でも、ロシア語で説教されても意味がわからないしなあ……」
妻はいつのまにか姿を消していた。私は、彼の表情が穏やかなのを見てとって、このまま逃げることに決めた。右手を顔の高さまで上げて、軽く頭を下げつつ、「わかった、ごめん、ごめん。戻るから」と心の中でつぶやき、にっこりと微笑みながら、そそくさとその場所を離れたのである。
幸いにも、彼は追いかけてはこなかった。
チュメニ駅の駅舎側のホーム。このホームのどこかに私服警官がいたようだ
確かに、モスクワに近づくにつれて、駅の警備が厳しくなっているのは感じていた。実際にモスクワでは何度かテロがあったのだから、それはしかたがない。
だが、旧ソ連時代の経験を生かして、あまり無理をせずに写真を撮っていたつもりだったので、今回は羽目を外しすぎたかと自己嫌悪に陥ってしまった。
「どうしたの、落ち込んじゃって。結局、何事もなかったからいいじゃない」
私は、「もとはと言えば、あんなホームの端まで行くからいけないんだ!」ということばを飲み込んで、一人車窓をぼんやりと眺めるのであった。
湯沸器が撮影禁止!?
ところが、その1時間半後、今度は妻が落ち込む事件が起きた。コンパートメントの外から戻ってきた妻が、やけにうなだれている。
「湯沸器の写真を撮ろうと思ったら、ダメだって言われた」
「えっ、あのアネゴ車掌に?」
「そう、湯沸器にカメラを向けたら、その前に手を出して写すなというのよ」
チュメニの機関区。蒸気機関車用の扇形庫が残されていた
やはり、モスクワが近くなると、いろいろとうるさいのか。とはいえ、軍用トラックはともかく、なぜ湯沸器が……。予想外の出来事に、二人とも黙りこくってしまった。
それからしばらくして、アネゴ車掌がやってきて、妻に「ちょっと来て」とジェスチャーをする。2、3分ほどして戻ってきた妻は、満面の笑みであった。
「さっきは湯沸器が汚れていたから、写して欲しくなかったみたい」
しかも、湯沸器にはタオルがかかっていたので、みっともないと思っていたようだ。そのタオルでステンレスの湯沸器をピカピカに磨いたので、「さあ、写してくれ」と呼びにきたのである。
意外と外国人との間の誤解というのは、こんなつまらないことから起きるものなんだなと、思わず私は年寄り臭い教訓を口走ってしまったのであった。
大きな町が増えてモスクワに近づいていることを実感
ところで、地図を見ると、ノヴォシビルスクからモスクワまでの直線距離は、ウラジオストク~モスクワの半分近くある。だが、ノヴォシビルスク以西は直線区間も多く、大きな勾配もないようなので、列車はかなりのスピードを出していた。
そして、これまではあまり目にしなかったような都会が次々に現れてくる。やはりシベリアの西側のほうが古くから開拓されたためだろう、東側の牧歌的な駅や沿線の雰囲気が懐かしい。
とはいえ、大きな町と町の間にも、やはり森林や原野があり、はっとするほど美しい光景が目に飛び込んでくる。そんな光景を逃さないように、相変わらずカメラを手元に置いて車窓を眺めている私であった。
いよいよ明日の夕方はモスクワ到着である。
金色のネギ坊主が乗ったロシア正教の立派な教会も、よく見かけるようになった
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